トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ ユダヤ人のジョークはなぜ秀逸か
外交評論家 加瀬英明 論集
ユーモアは、意外だからおかしい。エンサイクロペディア・ブリタニカの一九七四年版にある『ユーモア』の項目は、アーサー・ケストラーによって書かれているが、このなかでフランスの城主とカトリックの司教についての小咄が一つの例としてあげられている。
新婚の城主が美しい妃をのこして、狩りにでる。そして城に戻って、寝室に戻ると、妃とカトリックの司教がベッドにいっしょに入っているではないか。しかし城主は落ち着きを払って寝台のわきを抜け、バルコニーに出ると、眼下を通る町の人々に向かって、虚空に十字を描きながら、祝福しはじめる。
司教は驚いて、「伯爵、どうかなさったのですか」とたずねる。「いや、あなたが私の勤めを果たされているので、私はあなたの御勤めを果たしているのです」と、城主は祝福の所作を続けながら答えると、いったものである。
これはジョークであるが、ユーモアはどのようなものであっても、意外性に基づいている。だから独創的なものだ。もちろん、ジョークもユーモアの一種である。日本でも昨年、読売新聞が毎日、夕刊に囲みを設けて、世界のジョークを紹介していたことがあったし、週刊誌のなかでは最後のページを西洋のジョークにあてているものがある。ジョーク集の本も、かなり出版されている。アメリカや、イギリスでも人によっては、こういったジョークを紹介するのを好む人がいる。ドイツのパーティーの席上では、「こんな話をきいたことがあるかね?」と斬りだして、新しくきいたジョークを披露しあうことが多い。
私もジョークは好きだ。たまに読んだり、親しい友人と会った時に、卓抜なジョークをきくのは楽しいものである。意外なことを考えるのは、〝頭の柔軟体操〟ともなる。まったくちがったところから、物事を眺めてみるということで、発想のよい訓練ともなるだろう。
ジョークの伝統がもっとも古いのは、ユダヤ人であろう。実際、ユダヤのジョークのなかには秀逸なものが多い。ユダヤ人にとってジョークは、けっしてつまらない遊びではない。ジョークの占めている地位が、かなり高いのだ。ヘブライ語では、「ジョーク」と「英智」は、「ホフマ」という同じ言葉によって表される。ユダヤ人であったアインシュタインは、ジョークを好んだことで知られている。もともとジョークは、規格から外れたものだ。そして新しい試みは、常に既存の常識の枠を破るものなのである。
ユダヤ人はヨーロッパで歴史を通じて、言葉ではいい現せないほどの迫害に耐えてきた。ユダヤ人にとって自分や、境遇を笑うことは、苛酷な現実から自分の精神を守るのに役立ったのだった。笑えるかぎり、人間は負けることがないのである。強い風が吹いても、竹や、柳のように、なかなか折れることがないのだ。
笑える人間は、強靭である。斉藤茂太さんによれば、ユーモアがある家庭に育った人間のほうが、挫折しないという。ユーモアのある家庭には、自由な人間が育つからであろう。
それでもジョークは物語自体が独創的なものであっても、語り手がそうであるわけではない。ほんとうに楽しめるユーモアは、さまざまな場面で、個人が思いがけなく発するものである。柔軟で、個性が強く、独創的なものだ。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 五章 「ユーモア」の発想
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