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外交評論家 加瀬英明 論集
私は、『新約聖書』の中に描かれているイエスを、慕っている。聖書は、優れた文学書である。
ところが、新約聖書は激しい反ユダヤ文書となっている。新約聖書はイエスの死後、2000年あまりのあいだに、多くの人々の手によって書かれた。誰が著書であるのか、分からない。
共観福音書は、新約聖書の中のマタイ、マルコ、ルカによる福音書が、記述の内容と構成が重複して、共通するところが多いために、そう呼ばれる。
「ヨハネによる福音書」は、イエスの口から「あなたたち(ユダヤ人)は、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っています。(略)あなたたちが、(神の言葉を)聞かないのは神に属していないからである」(8-44、47)と、いわせている。
これは、創作にちがいない。イエスを冒瀆するものだと、思う。
あるいは、「マタイの福音書」は、ユダヤ人に「民はこぞって答えた。『その(イエスの)血の責任は、我々と子孫にある』」(27-25)と、呼ばせている。
ユダヤ人に対する憎しみは、キリスト教にとって、本質的なものであってきた。
キリスト教が、母胎のユダヤ教から分かれて独立するためには、ユダヤ人を敵視しなければならなかった。
聖書のなかで、イエスを裁判にかけて処刑したローマ帝国の監督のピラトは、優柔不断な善人として、描かれている。ピラトは、イエスに好意的である。イエスに何の罪も見出せなかったにもかかわらず、ユダヤ教の祭司長や、長老や、法律学者、民衆の欲求に屈して、死刑を宣告したことになっている。
ユダヤ教は、イスラエルの民であるユダヤ人の部族宗教だったので、異邦人にはなじめなかった。ユダヤ民族は、「神によって選ばれた民」だとされた。
私は、イスラエルの民が選んだ神だったといった方が、正しいと思う。キリスト教はユダヤ教から分離するために、ユダヤの民が選んだ神を捨てて、自分たちの神としなければならなかった。
イエスを売ったというユダは、「ユダヤ人」という意味である。
バチカンは1965年の公会議で、ユダヤ人の「主殺し」の大罪に対して、はじめて赦しを与えた。公会議は、ローマ法王が聖職者たちを招集してキリスト教の教義を定める、教会の最高会議である。
ローマ法王は冷戦下で、全世界の共産主義者を破門する勅令を発した。
共産主義者のさまざまな悪行を考えると、当然のことだった。
しかし、バチカンはヒトラーのユダヤ人迫害について知っていたのに、最期までヒトラー、ケッペルス、ヒムラ―、ボルマンなどのカトリック教徒を破門しなかった。
イエスは、一休と同じように、人生を正しく、闊達に生きた。
それにもかかわらず、キリスト教は人々の性によって、憎しみの宗教となってしまった。
ヒトラーによるユダヤ人虐殺は、キリスト教徒によって「ホロコースト」と呼ばれる。
ギリシャ語で「焼いた供え物」という意味だ。ユダヤ人はキリスト教の祭壇に捧げられた「供え物」だったのだろうか、ヘブライ語では、ナチスによるホロスコートは、「ショア」―破局と呼ばれる。
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