トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 独創性のない日本人の笑い
外交評論家 加瀬英明 論集
日本人は笑うことが、あまり上手ではない。社交的な義理の笑いとか、ごまかすための笑い、卑屈な笑いが多いようである。自由に、ほんとうに笑うことが苦手なようである。結婚披露宴の挨拶のなかで、ちょっとおかしなジョークが飛び出しても、集まった客がいっせいに爆笑するということは、めったにない。ほとんどの場合は、幽霊のさざめきのような笑い声が、一瞬、会場で起こるだけなのだ。
日本では笑うべきではない場と、笑える場ははっきりと分かれている。ちょうど二段のギアがあって、どちらかに切り替えるようなものである。このギアはきわめて硬いものだ。そこで、いつでも笑える態勢にはないので、さあ、みんなで笑いましょう、といった場にならないと笑えない。笑いの交通信号機のようなものがあって、これから先はお笑いくださいというようなものである。人間はいつでも笑える態勢にあることが大切である。モハメッド・アリが軽快に脚をさばいて、体重を移しかえるように、いつでも真面目さと笑いの切り替えができることが望ましい。
日本の新聞の社説や、雑誌の論文が四角張ってしまってユーモアに乏しいのも、笑う場と、笑ってはならない場との区別があるからなのだろう。それに日本では笑いは個人のものであるよりも、集団的なものである。個人であることに自信がなく、左右の人を窺って暮しているために、場によって支配されてしまうので、感情が伝染しやすい。しかし諧謔は、本来、個人から発するものであるとともに、規格に反抗するものである。
日本の典型的なユーモアとして、落語がある。しかし、ほとんどの咄は古典落語であるから、オリジナリティが薄い。落語も、他の日本の芸能のように、高度に様式化されている。日本文化は、華道や、茶道をとってもわかるように、高度に様式化されている。咄家にとって重要なのは、稽古であって、独創性ではない。日本文化のなかには個人の独創性に対する怖れがあるようである。
私は最近、来日した、親しいアメリカジャーナリストといっしょに、ある役所へ行った。
出てくると、彼は「いい人たちだけど、十年も役所にいると、みんなアンドロイドになってしまうのだな」といった。ギリシアの伝説には半身半獣がでてくるが、アンドロイドは科学空想小説によくでてくる、半分人間で半分機械からできあがっている半人工人間のことである。私はおかしいと思った。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 5章 「ユーモア」の発想
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