庶民が経済や学問の分野において、幅広い自由を享受していたことが、社会を安定させた。そして庶民の逞しいエネルギーを、引き出した。

　徳川体制は中央集権と藩による地方分権との間に、絶妙な均衡がとれていた。

　江戸時代に日本の近世が始まり、旺盛なエネルギーが創出された。

　たしかに、江戸時代は庶民が上下尊卑といわれたように、生まれが賤しい者として、身分差別を蒙っていた。それにもかかわらず、町民は生気に満ちいていた。経済が発展すると、武士が旧態依然とした生活によって縛られていたのに対して、町民を中心とする庶民が新しい生活を創りだした。

　町民は武士よりも、自由に生きた。金の力が町人という新興勢力に、新しい人としての意識をもたらした。

　町人は腕一つで、のしあがった。多くの町民が下級武士、高い収入をえていた。江戸時代を通じて、武家が人口の七％強を占めていた。

　江戸時代の日本は、世界のなかで庶民がどの国よりも、豊かな生活を享受した社会を形成していた。これは大いに誇れることであっる。

　江戸時代に、歌舞伎、浄瑠璃が町民の芸能として発達し、浮世絵など、庶民芸術が爛熟した。

　これほど、庶民が恵まれた生活を営み、庶民文化が栄えた国は、世界のどこにも存在しなかった。庶民の力が、世界的な芸術を生み出した。旺盛な経済活動がもたらした高い生活水準によって、支えられたものだった。

　歌舞伎をとれば、世界のなかで、もっとも絢爛豪華な舞台芸術である。誰も、異論があるまい。他の諸国では、舞台芸術や、絵画や、音楽は、支配階級である王侯貴族のものだった。庶民が歌舞伎や、絵画芸術をはじめとする工芸を支えた。

　歌舞伎が下町の庶民感覚と、風俗世相を映した大衆劇であったのに対して、能楽が武家階級のものだった。他の国々では絵画芸術も支配階級のものだったが、日本では庶民が、春信、歌麿、写楽、北斎、広重をはじめとする浮世絵芸術を生んだ。浮世絵は、町絵とも呼ばれたが、十九世紀後半にジャポニズムとして、ヨーロッパ美術界に衝撃的な影響を及ぼした。

　浮世絵は江戸中期から版画技法が発達して、黄金時代を迎えた。それまで浮世という言葉は、苦しみに満ち、7つらいことばかり多い世の中を意味していたが、江戸時代に入って生活が急速に豊かになったために、江戸時代前の厭世思想の裏返しとして、うきうきと享楽的に生きるべき世の中を意味するように、変わった。このような言葉の意味の変化も、繁栄する市民生活を反映していた。

　近松門左衛門（一六五三～一七二四年）は“日本のシェクスピア”と呼ばれているが、シェクスピアよりも、九十年あまり後に生まれた。近松は井原西鶴(一六四二～九三年）や、松尾芭蕉（一六四四～九四年）同時代人だった。

　シェクスピア劇に登場する人物が、すべて王侯や貴族であるのに、近松の人物たちは、中小の商人か、その手代か、浪人であることが、対照的である。ヨーロッパ王侯貴族を中心とした文化だったのに対して、日本では庶民が文化の担い手となっていた。

徳の国富論　資源の小国　第一章　徳こそ日本の力