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外交評論家 加瀬英明 論集
このような土壌では、異なったものや、新しいものは警戒されやすい。そこで思想や物の見方が形式化してしまって、建前化しやすいのだ。そこで戦前でも戦後でも、社会に一つの大きな流れができてしまうと、外から強い圧力が加わらないかぎりは、変えることができない。結局のところは、日本では個人が尊敬されていないのだ。私たちは個人よりも、組織を大切にする。
日本人の心情には、流れ、あるいは大多数の圧力に進んで屈しようとするところがある。大きなものに属したいという願望が強い。そこで新聞に戻れば、アメリカや、ヨーロッパのように二十万部や、三十万部の権威ある高級紙というものが成り立たないのだ。
日本では三大紙は、大きいから権威があるのだ。そこで新聞と読者の関係も、新聞が上であって人々が下であるという、上から下へ伝える形をとってしまうことになる。ところが困ったことに、ほんとうは新聞は部数が大きくなるほど、クオリティー・ペーパーから遠ざかってゆくことになるのだ。
日本人はつねに集団の一員として、自分を意識して生活しているので、一人ひとりだと、いじけているところがある。自信がないのだ。ほとんどの人が無力感に苛まれている。自分一人がどうかしても、どうにもなるものではない、といったような、いってみれば何もする前から敗北感があるのだ。そのかわりに集団になると強い。
私たちが〝ブーム〟に弱いのも、このためである。右顧左眄して、流れがどこにあるのか、素早くみてとろうとする。だからセンセーショナリズムの犠牲になりやすい。
新聞は容易に一時期、全国的な興奮の〝堝〟をつくりだすことができる。しかしセンセーショナリズムは人々の感情に訴えるエモ―ショナリズムであるので、生命がきわめて短い。そこでつぎからつぎにブームや、ショックが押し寄せては消えることになる。
これは江戸時代の「おかげまいり」と似ている。辞書でひくと、こう説明されている。
「『ぬけまいり』ともいう。江戸時代特定の年に起こった爆発的な庶民の伊勢神宮参詣現象。子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に断りなく飛び出し、道中歌い踊り歩き、女装に趣向を凝らすなど日常の規範を超えて自由に参詣した。大規模なものは一六五〇(慶安三)年、一七〇五(宝永二)年、一七七一(明和八)年、一八三〇(天保一)年の四度で、毎回二、三百万人にのぼったが、なぜそれらの年に起こったかは明らかでない。宗教的熱狂の中に民衆の封建的支配に対する不満を発散させるという役割を果たした」
(『角川日本史辞典』)
明治五(一八七二)年に、はじめて国勢調査が行われたときの日本の人口が三千四百万人であるから、二、三百万人といえばたいへんな数である。封建支配に対する不満が爆発したものだとふつう説明されているが、今日でも集団のなかで個性を抑圧されて、生活している人々にとって〝ブーム〟や、〝パニック〟は、同じような役割を果たしているのだろう。センセーショナリズムは格好な気晴らしとなるのだ。そのかわりに、物ごとを冷静に眺めることができなくなってしまうのである。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 6章 新聞にみる「センセーショナリズム」
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