トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「神謀る」合議制と「かな」が生んだ美意識
外交評論家 加瀬英明 論集
日本では、つねに合議制が行われた。日本神話では神も神謀るといって、神々が相談して物事を決めている。江戸幕府では三人から五人いた老中が、合議して決定した。
私は『ブリタニカ大百科事典』(大映百科事典)の最初の外国語版となった『ブリタニカ国際大百科事典』(TBSブリタニカ刊)の初代編集長をつとめた。編纂するのに当たって、数百人にのぼる学者の協力をえた。
著名な国語学者と会食した時に、「江戸時代までリーダーに最も近い言葉は、何だったでしょうか」と、質問した。すると、考えた後に、「重立ち衆、頭領、頭目でもないですなあ」という、自信のない答えが戻ってきた。
アメリカの政権では閣僚からはじまって、政治任用職は八百人以上にのぼるが、全員が大統領の人格の延長だと考えられている。ヨーロッパにおいても、同じことだ。ヒトラーのドイツにおいても、スターリンのソ連においてもそうだった。中国、韓国、北朝鮮でも、頂点に立つ権力者の意思が抗し難い力を持っている。
日本では閣僚も、首相の人格の延長ではない。大戦中の東条首相でさえ、独裁者ではまったくなかった。
アメリカの占領下で、日本の指導者が捕らえられて行われた『東京裁判』では、昭和六(一九三一)年の満州事変から、先の大戦まで十四年のあいだに、日本の指導者が捕らえられて「共同謀議」として、侵略戦争を働いた罪によって、裁かれた。
ところが、日本ではこの十四年のあいだに、首相が十四人も交代している。
A級戦犯容疑者としてやはり巣鴨刑務所に投獄され、戦後、首相となった岸信介氏の回想によれば、“A級戦犯”とされた人々は、巣鴨刑務所に収監されてから、はじめてゆっくりと話し合えたと、語ったという。
日本には指導者が不在だったのだ。日本には、今日でも西洋型の指導者がいない。
私は『源氏物語』や、川端文学の訳者であり、アメリカの日本文学研究の権威であるエドワード・サイデンステッカー教授と親しくしていたが、口癖のように「私は指導者という日本語が大嫌いです」といった。もともと指導者という言葉は日本語に依存しなかったのだ。
古代から日本の岸を、大陸の先進文化が洗ってきた。先人たちは大陸文化を貪欲に摂取したが取捨選択した。
儒教だけではない。科挙も奈良時代のごく短い期間を除けば、模倣しなかった。宦官の悪習も、中国の職人習慣も、見習わなかった。李氏朝鮮には日韓併合まで、宮廷に内侍と呼ばれた宦官がいた。李朝は毎年、中国へ宦官と妓生を献上していた。
日本において識字率が高かったのは、中国や、朝鮮半島と違って、早くから独自の表音文字であるなかを国字として持つようになったためである。かなは日本最古の古典である万葉集が編まれたあいだに、成立した。万葉集は奈良時代の天平宝字三(七五九)年までの歌を、収めている。
日本民族がかなを持つことがなかったら、私たちの独特な美意識が生まれることがなかったろう。歴史の早い時期に、かなをつくりだしたのは、はかりしれない大きな恩恵をもたらした。
漢字や、古代バビロニアの楔形文字や、エジプトの聖刻文字などの表意文字は難しかったので、支配階級が独占した。それに対して、易しい表音文字をもった民族は庶民に読み書きが普及した。
中国や、朝鮮では、漢字は庶民と縁がなかった。支配階級のものであって、政治や、文芸や、科挙のための道具となった。中国と朝鮮では、庶民のほとんどが日本と違って文盲だった。
朝鮮はハングルという国字を、室町時代に当たる十五世紀につくった。音素を単位として、組み合わせる音節文字である。ハングルは文字を知らない者に漢字の代用をさせるものであって、諺文と呼ばれた。「諺」は卑俗という意味である。
両班階級の男たちは、ハングルを無教養な女子どもの字として蔑んだから、李朝が終るまで漢文しか使わなかった。私はアメリカ西部を訪れた時に、インディアンのチェロキー族が音節文字を持っていたことを知って、韓国を親しく思う者として好意をおぼえた。
日本は幸いにも大陸から海によって隔てられ、一定の距離を保つことができたのをはじめとして、多くの幸運に恵まれた。そのなかに、中国や、朝鮮が中央集権制度をとっていたのと違って、多くの藩に分かれていたことがある。
徳の国富論 資源小国 日本の力 6章 「指導者」や「独裁者」がなかった日本語
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