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外交評論家 加瀬英明 論集
日本のキモノは、誰が着ても美しいものである。完成度がきわめて高い芸術作品である。日本には「馬子にも衣裳」という諺があるが、キモノが一人歩きすることができるものであるからなのだろう。
ところが西洋には、「馬子にも衣装」といった言葉はない。きっと日本では洋服をキモノの発想でつくるし、そうして着てゆくところがあるのだ。男の背広にも、そういったところがある。洋服自体が完成されすぎているので、しばしば洋服が歩いているようになってしまう。私は男であまり洋服に関心を持つ人は、信頼しない。関心をあまり持つと、着せ替え人形のようになってしまう。
もっとも日本でも、この十年ほど、自己表現の手段として服を選ぶということが行われるようになっている。だから婦人服売り場へ行くと、日本では客がことさら焦ら立っているようである。アメリカで女性が服を選ぶときには楽しそうだが、日本ではいらいらしているように感じられるのは、女性たちのセルフ・イメージが定まらないからなのだろうか。
ニューヨークの洗練された女性たちは、自分を中心において品物を買う。選ぶ目が肥えているということこそ、贅沢なのだ。そして自分に合うものについて自信と、少し気張っていえば安易に妥協しない精神を持っているのだろう。個性とはそういったところから生れてくるのだろう。
なんでも日本は、ダンヒルとか、デュポン、カルチェといった高級ライターや、世界の超一流品といわれる腕時計にとって、最大のマーケットだという。総合雑誌のページをめくると、こういった商品の広告が多い。ところが本家のヨーロッパや、アメリカの同じような雑誌をみると、このような広告は、ほとんどないのだ。こういうところにも、日本人の高級品志向が現れているが、外国のこういったメーカーにとってはよい市場になっているのだろう。ご多分にもれず私もいくつか、といっても、ライターや、万年筆程度のものであるが、こういうものを貰って持っている。たしかにヨーロッパの老舗がつくった高級品だけあって、精緻で、美しく仕上げられている。
ところが料金が高いバーなどへ行くと、高価な品物を見せびらかすように、持っている者が多い(案外、私のほうで羨ましいので目につくのかもしれない)。それでもスイスの超薄型の時計をはめていたり、七、八万円はするだろうライターを取り出すといった光景を見ると、もうだいぶ昔のことになるが、私が子供だったころに、小学生が定期券や、手袋に紐をつけて、首から吊っていたのを思い出すのだ。そうでないと、人生という電車に乗れないのだろうか。
ロータリー・クラブや、ライオンズ・クラブのバッジや、一流ゴルフ・クラブに属しているといったことや、一流会社の名刺に刷り込まれている肩書というのも、おうおうにしてそうなのではなかろう。私は何回か勤め口を持ったことがあったが、肩書きが入った名刺を持つのはいつも億劫だった。社名の入った名刺や、肩書は、便宜的なものである。私は三十代のはじめに勤めをやめて、名前と住所しか書かれていない名刺を持った時には、正直にいってほっとした。
もっとも日本人の一流好みは、どこの菓子とか、どこの帯紐といったように、外国製品が日本に入ってくる前からあったのだろうが、おそらくあのころはそのものがよいとか、美しいからということで求められ、自分に権威をつけるために持たれたのではなかったのだろう。
外国へ行くと、成功しているビジネスマンや、医師なども、案外、このような高級品を身につけていないものである。といっても日本人の一流好みには、もちろん、よい面もあるはずだ。東京オリンピックや、大阪万博が、海外ではみられないほどの規模で行われたのも、日本が国家として外へ向けて高級品を身につけてみせたようなものだっただろう。日本がここまで発展し、一流国になったのも、一流品を好むことと無縁ではあるまい。しかし六月の東京サミットをとっても、新聞の報道をみると、東京オリンピックや、万博のように国家として背伸びしている姿勢があるのは、まだ日本がほんとうに自信を持っていないように思われる。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 四章 「贅沢」という名の「貧しさ」