トップページ ≫ 社会 ≫ いざ東京五輪 霞ヶ関カンツリー俱楽部と発智庄平翁
社会
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東京2020。歴史に残るオリンピックの年が幕を開ける。
世界へつながる道の一つが川越霞ヶ関カンツリー俱楽部。このゴルフ場は一人の篤志家によって成しえたものだ。発智庄平氏。入間黒須で生まれ、母方の発智家へ養子に。生家である繁田家は庄平氏の弟武平氏が継ぎ、武平氏は1900年から1926年まで豊岡町の町長を務めた人。庄平氏は1887年に黒須小学校の校長として、教育隆盛・地域振興をすすめ、渋沢栄一翁の支援で1900年「黒須銀行」を創立し頭取に、庄平氏36歳の時だ。昔の人は青雲の志をもち大志を抱いていたものだ。1914年から1926年は霞ヶ関村の村長。霞ヶ関尋常小学校に土地6300平方メートルを寄贈。児童養護施設埼玉育児院の院長をつとめ、施設も自宅そばに移設。この施設は2012年に創立100周年を迎えた。
友人の星野正三郎氏(日米生糸株式会社専務)に「ゴルフ場を作ったらどうか?」といわれ、庄平氏は「何ですか」と聞き、星野氏は「ゴルフは西洋のスポーツで小さなボールをクラブで叩き、穴にいれるゲーム。欧米では盛んだから、きっと日本でも」と答えたというエピソードは有名。
庄平氏は「村の活性化、村の人の仕事場・従業員・キャデイなどの雇用の発生があるため、必ずやり遂げる」という強い信念をもっていた。一人の所有地であることや、総工費(当時の12万円)を用立てるという物心両面の支援が実り、1929年霞ヶ関カンツリー俱楽部が誕生となった。
清浄なる野外の大自然と同化し身体を強壮にし、わが国固有の武士道の精神をプレー中に養えるといった趣意書、庄平翁の篤志、ゴルフ場誕生する時から名門の魂が宿っている霞ヶ関カンツリー俱楽部。この夏はこの歴史を胸に一流ゴルフプレーヤーの姿を見たい。
大曾根 惠