トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 小泉八雲が描いた「稲村の火」 その1
外交評論家 加瀬英明 論集
小泉八雲(イギリス名、ラフカディオ・ ハーン、1850年~1904年) は、日本を愛した作家で、文芸評論家だった。
ハーンは明治23(1890)年に、なつが十七歳になったときに来日した。しばらく後に日本国籍を取得して、帰化した。
ハーンの作品のなかに、『生神(いきがみ)』がある。このなかで、神道の神社をこう描いている。
「日本の神道の『宮』や『やしろ』― あの永遠₍とことわ₎の薄明のなかに、おそらく紙でできた御幣(ごへい)以外には、御神体も、象徴のものも、形代(かたしろ)めいたものも、何ひとつ飾ってない、日本の神社のあのふしぎな特徴をおばろげながらもつたえることができるかと思う。(略)
その奥にある空洞 ― あの何もない空洞こそは、どんなものがつたえるより以上に、じつに意味深長な空洞なのである。
あの、中に何もない、がらんどうな社の前で、何千年という長い月日のあいだ、何百万人という人たちが、かれらの偉大な死者を礼拝してきたことをおもい、しかも、こんにちなお全国民が、そうした建造物のなかに、自分たちの胸の奥深くにある目に見えない人が住んでいる、と信じていることをおもうと、諸君は、この信仰が荒唐無稽で、ばかげたものであることを立証することが、いかに困難であるかに思いいたるにちがいない(略)」
「とにかく諸君は、そこに当然あるものに対して、しばらくの間でも、尊敬の態度をとらずにはいられないはずだ。(略)常識だの分別だのという証見も、いっこうに役に立つまい。
諸君は、ただそこに、目にも見えず、耳にも聞こえず、また手にも触れない、それでいて、カとして ― 偉大な力として実在しているもののあることを知覚する。
そして、この知覚が、 諸君の身近に空気のごとく揺曳(ようえい)している間に ― ちょうど空気が諸君の五体に圧力を加えるように、この知覚が諸君の肉体にひしめいてくるのを意識するうちに、諸君は四千万の国民が心奉しているこの信仰を、一笑に嘲(あなど)りさってしまうことができなくなってくる」(『仏の畑の落穂』平井呈一訳、恒文社)
「諸君」というのは、西洋の読者のことである。
『生神』のなかで、大津波(1854〔安政元〕年に安政南海地震で現在の和歌山県広川町を襲った津波)が、取り上げられている。これは(ハーンの、『生神』の刊行された1896(明治29)年の三陸大津波に触発されて書いたとされる話である。これを児童向けに再構成されたものが「稲むらの火」と題されて、戦前の小学校の国定国語教科書に載っていた。
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