トップページ ≫ コラム ≫ 埼玉の余話 ≫ 埼玉の余話2013.9.25
コラム …埼玉の余話
上田知事三選の任期が二年をきった。四選出馬するのか否かがにわかにとりざたされてきている。四選は多選なのか? もし多選としたら、多選は悪かが問われなければならない。この場合、一般論を論じてもさして意味はない。問題は多選されればされるほど、本人も側近も、身近な人達も優秀さを保てるのかどうかなのだ。正直、この優秀さを保てる人は稀といって過言ではあるまい。古今東西、今も昔も、人間も権力もだらける本質をもっていて、その困難さにうち克つのは至難の技なのだ。「権は10年久しからず」とはよくいったものだ。
しかし、御多分にもれず、人の世は奇蹟と例外がつきものだ。余命、幾何もなしと宣告された人が見事に長生きしている例もそれなりにあるからおもしろいのだ。失礼ながら上田知事は、衆議院に四回も落ちた。しかし、ふんばった。倒れなかった。へミングウエイの「人は負けるためにあるのではない!」という名言通り見事な巻土重来を期した。奇跡の人だ。だから、大いに定説を破ればいい。そして、人の範となり、世の常識の危うさを天下に示せばいいのだ。知事は「残任期間を全うするだけだ。四選は考えていない」等々。公言してはばからない。ただ、巧言ともとれる。たくみな言葉の意味だ。この後に令色とつけてもそれは決して顔色を良くして飾ることではない。上田知事の風貌が、辞書にいう容儀を正しき顔つきと信じていれば全て事は無しだ。