社会
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「日本社会の採点帳」より
外交評論家 加瀬英明
私は国際政治を生業としてきたが、外国を知るほどに、日本文化がどのように独特であるのか、関心をいだいてきた。
日本は十九世紀後半にアジアの民のなかで、一国だけ見事に近代化を成し遂げて、白人が覇権を握っていた世界において、一流国の仲間入りを果たした。いうまでもなく、先人たちが蓄えてきた力によったものだった。
今日でも、日本は世界主要八カ国(G8)サミットのなかで、白人でもキリスト教国でもない、唯一つの国である。
日本は天然資源を欠いた国であってきた。それなのにもかかわらず、日本はアジアにおいて、他の民にない大きな力を持っていた。
私はいったいこの力が、どこから発しているのか、案じてきた。八月にこの疑問に答える本をまとめて、出版社に渡した。
明治以降の日本の発展を支えてきた力は、江戸時代に蓄えられたはずである。日本は惨憺たる敗戦を喫したが、立ち上がってたちまちのうちに世界第二位の経済大国の地位を獲得した。明治以後の発展をもたらした力が、働いたのだった。この力こそ、日本にとって国富となってきた。
このところ江戸時代への関心が昂まって、出版界で“江戸ブーム”が続いている。江戸時代を見直すのは、有益なことである。
江戸をとれば、江戸時代を通じて参府した多くの西洋人が証しているように、壮麗な都市だった。時代によって人口に増減があったが、百二十万人から百四十万人あまりを擁していた。
武家が五十万人あまりで、町民が七十五万人あまりだったとしよう。
よく知られているように、南北二つの町奉行所が町民を治めていた。二つの奉行所には、合わせて三百三十二人の町方役人が働いていた。この数は江戸時代を通じて、変わらなかった。両奉行所の役人は月番制で、隔月交替して働いた。
七十五万人の町民を治めるのに、百六十六人の役人で足りた。四千六百人当たり、役人一人がいたことになる。
今日の東京都の人口は、一千二百八十万人だ。都の公務員が教育公務員を除いて、二十一万八千人いる。というと、都民五十九人ごとに、一人の役人がいる勘定になる。
南北奉行所の役人のうち、六十四人が司法と警察を担当していた。警察業務を担った同心定廻(じょうまわ)りは、両奉行所を合わせて十二人しかいなかった。町方同心とも呼ばれたが、それぞれ自分の収入のなかから、五人あまりの目明しを抱えていた。さらに岡引きがそれぞれ自前で、五人あまりの下引(したっぴき)を雇っていた。
岡引きと下引きを加えても、百五十人に充たない警官によって、七十万人以上の治安を維持していた。今日の東京都には都民二百九十人ごとに、警察官が一人いる。江戸では町民四千七百人ごとに、一人で足りていた。
これは、町民が高い自治能力をもち、公徳心がきわめてたかかったからだった。
後藤新平は明治から大正にかけた政治家だが、大正九(一九二○)年から東京市長をつとめた。後藤は市長在任中の大正十一年に、江戸の自治制度を調査して、『江戸の自治制』と題する研究書を著している。
このなかで、江戸が世界における大都市であったのにもかかわらず、市民の「自治精神を鼓吹」したから、「少人数役人を以て之(これ)を処理して猶綽然(なおしゃくぜん)余裕(が)有った」と述べている。そして「幕政の特色たりしは儀礼を以て社会を秩序せること是也(これなり)」と、結論づけている。
後藤は明治に入ってから江戸の良風と、市民秩序が破壊されてしまったことを、憂いている。
「王政(注・明治)維新に際し、嘗(かつ)て一たび地方人衆の征服する所と爲り、精神的には幾ど其(その)蹂躙する所と爲りたるより、(略)之(これ)が爲め一方に旧都市の栄光土泥(どでい)に委(い)し、都風破れ、自治的旧慣亦(また)多く廃されて地を払ふに庶し」と、慨嘆している。
江戸時代は庶民が世界で類例のない、恵まれた社会を形成していた。世界のなかで被支配階級が支配階級よりも活力に溢れていたのは、日本だけだった。庶民が主役だったが、豊かで、自由な生活を謳歌した。
江戸時代の日本は、西洋が生んだ機会こそ欠いていたものの、経済、農業、教育、学問、工芸、余暇活動とどの分野をとってみても、世界の先端をいっていた。
それなのにもかかわらず、日本では江戸時代というと、封建制度のもとにあって、暗い時代だったという先入観に、とらわれている者が多い。
明治初年を指して、開明期と呼ぶことが定着している。開明は文明が開化することを意味している。
明治以前が暗かった時代だったという偏見が、広くいだかれている。このような偏見をひろめた、もっとも大きな原因は明治政府がつくった。
薩長勢力が幕府を倒して天下を握ったが、新政府は新しい御代を宣伝するために、徳川時代を暗かった時代として、否定した。
島崎藤村の小説『夜明け前』という題名は、その典型的なものである。この作品は幕末の飛騨地方を描いた優れた記録であるが、明治の新時代が“夜明け”であり、開明期だったということを、前提としている。
それに加えて、マルクス思想にかぶれた、知恵足らずの知識人や、学者が封建時代を暗黒の時代として、マルキシズムの粗雑な型紙に合わせて歴史観を裁断したために、歪んだ見方がいっそう強められた。
明治以後の日本の発展をもたらした力は、国民がひろく備えていた徳から、発していた。徳こそが、日本の国富であってきた。
ところが、明治以後に西洋化を強いられ、西洋を模倣するうちに、日本人の生活文化と精神が蝕まれていった。
今日、日本が力を衰えさせているのは、私たちがこの徳の蓄積を食い潰してきたからである。