社会
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腰痛が悪化して入院、脊髄を手術した後、リハビリ病院に転院、計4か月余の入院生活を余儀なくされた。転院直後に入浴した際、やせ細った自分の体に驚いた。入院前は65kg超だったのが50kgに!ボクシング関係者からボクサーの減量についてはよく聞かされていたが、15kg超の減量は相当なものではないかと、出版社勤務時に編集担当した赤井英和さんの著書を探し出した。
長くタレントとして活躍している赤井さんだが、1983年にはジュニアウェルター級(現・スーパーライト級)の世界戦に挑んだ人気ボクサーだった。彼も減量に苦しみ、試合のたびに7~8kgは落としていたという。ダブついた体ではなく仕上げた体なので100gでも大変で、最後は梅干しガムを嚙みまくって唾液を出し、リミットの63.5kgをクリア。日本選手の減量記録としては元世界ライト級王者だったガッツ石松さんの17kgが有名だが、数字だけでは私もそれに近い減量となった。
世界戦で敗れた赤井さんは再挑戦を目指していたが、1985年2月、父親が米国人の大和田正春選手にKO負けした。この時のダメージは深刻で、急性硬膜下血腫、脳挫傷により緊急手術となり、頭蓋骨をドリルで手のひら大に切り開いて血腫を除去した。5時間余りの大手術だった。
私が彼に会ったのは大和田戦の2年ほど後だった。タレントとしての再出発も視野に入れていたようだが、瀕死の重傷を負ったとは思えない明るさで、私も早速ギャグネタにされてしまった。
彼の著書『浪速のロッキーのどついたるねん』(1987年 講談社)が刊行され、地元・大阪を中心にじわじわ売り上げを伸ばした。監督デビューを目指していた阪本順治さんにより映画化され、主演を赤井さん自身が務めた。ここでも彼は20kgもの減量をはたした。
映画は上映してくれる映画館がなく、テント小屋での興行で始まったが、次第に注目を浴び、その年の映画賞を多数受賞した。減量を含め、再起めざして奮闘した彼に学ぶことは多い。
山田洋
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