江戸の庶民は、どのように生きたのだろうか。

　江戸府内は、武家が住む武家地、町民に割り当てられていた町地と、寺社地に分かれていた。武家地が江戸城を囲むようにあって、つぎに町地があり、さらに寺社地があった。

　武家地が総面積のおよそ六割を、町地と寺社地がそれぞれおよそ二割ずつを占めていた。寺社地には多くの仏寺や、神社があった。寺社地の門前町にも、町民が住んでいた。

　明治二年に行った調査によれば、江戸府内の総面積は千七百五万坪（約五十六平方キロ）だったが、町地が二百六十九万六千坪（約八・九平方キロ）あった。

　八代将軍吉宗（治世一七一六～四五年から、江戸の繁昌が頂点に達するようになった。江戸には八百八町があったといわれるが、寛延二(一七四九)年に千四百八十三町、寛政四（一七九二）年には千六百六十八町に増えている。

　今日の東京都と較べれば、江戸府内の総面積は、世田谷区か、足立区に均しい。町地は、中央区の大きさにほぼ当たった。町地は旗本の町奉行によって、寺社地が大名である寺社奉教行によって治められていた。

　記録によれば、延宝五（一六九七）年に武家地には、大名の邸宅である屋形が五百二十以上、三千石以上の小名の屋形が二千八百七十あった。大名屋敷は広壮で、十万石の大名となと、七千坪の敷地を占めていた。

　安政二（一八五五）年に出版された『江戸図鑑』には、主要な大名諸侯の本邸である上家敷が二百六十五と、四百六十六の小名の屋敷が記載されている。

　大多数の武士が、長屋に住んでいた。一棟の長屋ごとに、数戸の同型の住居があった。庶民も長屋に住んでいたが、裏長屋と呼ばれた。

　町民は武家に対して町方とか、町衆と呼ばれたが、町民の七十％以上が、長屋に住んでいた。庶民の長屋は棟割長屋、相長屋、合長屋とも呼ばれた長屋は同じつくりの小さな住居をつなげて一棟としたもので、薄い仕切り壁で分けられていたことから、棟割長屋といった。

　長屋に住むのを、裏店借りといった。二世帯で済むことが多かったので、合店と呼ばれた。店は借家の事である。あとから入居する世帯を、孫店といった。住居狭かったから、隣人を身近に感じた。隣人の子どもたちは、家族のようなものだった。

　狭い道を挟んで生きる住民は、同じ町内だった。住民は「遠くの親類より近くの他人」という諺のように、人情によって結ばれていた。

いまでも住まいを引っ越すと、隣近所に手拭いなどを挨拶として配ることが行われるが、江戸時代に「相店の配り物」といって相長屋へ、蕎麦屋からそばを配達させたり、縁起を担いで小豆粥や、餅などを配ったことから発している。もっとも、このごろではこのような古い習慣も、忘れられるようになっている。

　明治三十九年といえば、この年に夏目漱石が『草枕』を発表している。

　江戸が東京に呼び変えられてから、まだ四十年たっていなかったから、人々のあいだに江戸時代の生活感覚が濃厚に残っていた。漱石はつぎのように、述べている。

　「人の世を作ったものは神でも鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、超す国はあるまい。(略)超す事ならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容で、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」

　漱石の言葉は江戸庶民の精神を、よく表している。今日の作家ならば、このようなことを書くまい。町内は心の絆によって、結ばれていた。

　江戸時代の日本人は、人が宇宙の中で生かされている存在であるように、人々のなかで生かされていることを、肌で知っていた。

　今日の日本では、とくに都会において、江戸時代の人々が頻繁に口にした情けとかとか、人情、義理といった言葉が、死語となっている。

　人々は和を尊び、陸み合った。今日の都会では、マンションの住人が交わることがない。

　主婦が隣家に、味噌、醤油を借りにゆくこともなくなった。都会では、「隣近所」という言葉が失われている。ほどなく、「隣人」という言葉も、日本語から消えることになるだろう。

　家族は身を寄せ合って生きていたのに、家族が団欒することがなくなった。このごろでは、家族が触れ合うことを避けるために、独立した子供部屋をつくるのが　　　　当たり前のことになっている。子供が部屋から出てこないから、まるで座敷牢をつくったようなものだ。

　家族の温もりも大切にしなくなったから、隣人と親しくしようとしなくなった。心が通うお隣がいなくなったために、住居が周囲から遮断された蜜牢となっている。

　ものごとの扱いに情けを加えることを、「色をつける」といった。「色」は情けの厚さや、相手への恩情のことである。いまでは、損得だけを基準とするようになったために、色をつけるという表現も無くなったし、そうすることもなくなった。

　人々にとって気配りや、気遣いが大切だった。こころは情けのことだったから、思慮分別、自分の気持ちと異なったものを受け容れる許容や、人としての証しまで意味した。人情は庶民の倫理だった。

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