トップページ ≫ 社会 ≫ 栄光のマラソンランナーの意外な自伝
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東京五輪は1年延期されたが、56年前、最初の東京五輪はちょうど今頃フィナーレを迎えていた。この大会で、五輪マラソン競技に初出場、そして4年後のメキシコでは銀メダル獲得、さらに次のミュンヘンでも5位入賞をはたした君原健二氏(79歳)が東京新聞の夕刊に自伝を連載している。標高2300mに近い高地で酸素量が平地の4分の3というメキシコ市での大会で、エチオピアのマモ選手に次ぐ2位でゴールインしたシーンは日本中を熱狂させた。驚くのは75歳でのボストン・マラソンまで74回のフルマラソンに出場し、途中棄権が1回もないということだ。
君原選手は首を横に振って苦しそうに走る姿で知られ、鉄の意志を持った根性一筋の人と思われがちだが、この連載では意外な素顔が随所に出てくる。日記をつけていたこともあり、描写はリアルで詳しい。自分を飾ろうという意識が希薄で時には自虐的でさえある。スポーツノンフィクションとしても人間ドラマとしても興味深く読める。図書館で見つけた45年前に刊行の著書でも、共著者の高橋進コーチ(故人)が彼の文章に驚き、「余りにもあけっぴろげに恥部をさらけ出してはばからない。駄目な人間が駄目なことだけを考えて、駄目なことを繰り返した、そしてたまたま運が良くて幸運をしとめただけだ……という筆の運びであって、一体こんなことを忠実に活字にしてよいものかどうか」と記している。
東京五輪では8位だったが、本人としては不本意なレースだったとして、所属先の八幡製鉄(現・日本製鉄)陸上部に退部届を出し、一般社員と同じ勤務を始めた。それを引き戻したのは陸上部監督で五輪コーチだった高橋進氏のあの手この手の作戦だった。次の五輪開催地メキシコ市での合宿に「高地で空気の薄い所でテストするためのモルモット代わり」との誘いに乗せられたのだ。帰国後も高橋氏のリードでマラソンに復帰していき、実績を残した。メキシコ五輪の日本代表枠3人の最後の1人に選ばれたのも、高地順応を重視する高橋氏の提言のお陰だった。
しかし、五輪の本番ではスタート前に腹の調子が悪くなり、トイレに駆け込んだ。16km地点あたりで、前回と前々回の優勝者アベベ選手(エチオピア)が戦列を離れて歩き始めたのを見たが、間もなく本人の身にも異変が生じた。不安だった下腹が痛み始めたのだ。トイレに入れば順位が10ぐらいは下がるから我慢するしかない。
有力選手が次々に脱落していき、自分の順位は観客の「ドス! ドス!」の叫び声で知る。ドスは2を意味する。そのままゴールし、意識は薄れていたが、トイレに直行した。高橋コーチは涙ながらに「ありがとう」と言ってくれたが、君原選手は「すみません」と繰り返すばかり。体調管理の失敗が申し訳なかったのだという。
今はすっかり商業化してしまった五輪だが、君原選手は近代五輪の父、クーベルタン男爵の提唱した「アマチュア精神」を大切にしている。銀メダルを獲得した日の日記にも「俺は決して銀メダルはそんなに素晴らしいものだとは思わない。今後ますます言動に注意しないといけないと思うが、俺はやはり真のアマチュア精神を負った気持ちを忘れないようにしなければいけない」と書いていた。
この精神が彼の自伝に潔さと清々しさを付与しているようだ
山田 洋
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