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外交評論家 加瀬英明 論集
庶民の力が増すなかで、庶民が独自の生活様式を創りだしていった。自信を強めて、武家に気負けすることがなかった。
井原西鶴は元禄時代の庶民生活を描いた、代表的な作家だった。
元禄時代は将軍綱吉の治世(1680~1709)を中心にした40年あまりの時代で、江戸開府から80年あまりたって始まった。元禄14年には、江戸城松の廊下で、赤穂城主浅野長矩が吉良上野介に刃傷に及んで、『忠臣蔵』の発端となった事件が起こった。
西鶴は、「一切の人間、目あり鼻あり、あしもかならず生れ付て、(略)俗姓筋目(注・血統)にかまはず、只金銀が町人の氏系図(注・家系図)になるぞかし」(『日本永代蔵』)と、書いている。
庶民は経済力によって武士に対抗する力を持っており、人が平等であることを意識していた。
西鶴は『武道伝来記』のなかで、武士を諷刺している。町人が侍を「侍畜生」といって罵る場面がある。
『武道伝来記』は短編を集めたものだが、「侍畜生」という言葉が繰り返しでてくる。『好色一代男』のなかでも、遊女の口から侍に向って、「侍畜生めよ」といわせている。
西鶴は覚めた眼差しで、武士を眺めていた。「今時は、武士はしらひでも、十露盤を置ならひ、始末の3字を名乗れば、何所でも知行の種となりて、譜代の、筋目正敷者は、かならず知行を減少さらる。世は色々にかはりて、今より末々は、諸侍たる者、万の代に、秤を腰にさして、商ひはやるべしと、さたする時」(『武道伝来記』)と、書いている。
武士は太平の世が続くなかで、戦場に出ることがなくなって、算盤を使う役人となってしまったから、そのうちに刀のかわりに秤を腰に差して、歩くことになるだろう、というのだ。
近松門左衛門も、「侍とても貴からず。町人として賎しからず貴い物は比の胸1つ」(『夕霧阿波鳴渡』)と書き、「侍畜生」という言葉を使っている。おそらく江戸時代の前から庶民のあいだで、武士に対する陰口として、ひろく使われていたのだろう。
近松も町人の意地が、溢れていた。近松は「根性」とか、「土性骨」という言葉を好んで用いている。
近松は町人劇の登場人物に、「侍の子は侍の親が育てて、武士の道を教ゆるゆえに武士と成り。町人の子は町人の親が育てて商売の道を教ゆるゆえに商人と成る。侍は利徳を捨てて名を求め、町人は名捨てて利徳を取り金銀をためる。是が道と申すもの」(『山崎与次兵衛寿の門松』)と、語らせている。
「ハテ刀差すか差さぬか。侍も町人も客は客。なんぼ差いても五本六本は差すまいし、よう差いて刀脇差たった2本」(『心中天の網島』)となると、痛快である。
元禄時代の代表的な作家といえば、散文は西鶴、演劇は近松、詩は芭蕉である。西鶴が「銀が銀もうけする世」と断じたが、西鶴や、近松の作品から、庶民の意気が伝わってくる。
西鶴は興隆する経済生活における庶民の人間像を描いたが、仁義、勤勉、分別や、堪忍などの倫理と、処世術を説いた。江戸期の庶民がどのような人生観をもって生きたのか、窺うことができる。
「若時心をくだき身を働き、老の楽みはやく知べし」(『日本永代蔵』)、「人は13歳迄はわきまへなく、それより廿45までは親のさしづをうけ、其後は我と世をかせぎ、45迄に一生の家をかため、遊楽する事に極まれり」(同)と、説いている。
江戸期の日本人は堪忍することを、重んじた。階層を超えて、忍耐心が人々を律していた。
武士も、町人も自制心を働かせて生きた。
(徳の国富論 第4章 売り手よし買い手よし社会よし )