トップページ ≫ 社会 ≫ 「学を好み、怒りを遷さず」の教訓
社会
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けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
私同様、何事が起きたのかと皆が視線をおくる。
直進車が右折車に向かってなげているものだ。
明らかに危ないわけではなかった。
そもそもクラクションとは何なのか。
警告であり怒りを表すものではない。
この時とばかりにストレスを発散しているようにも見受けられる。
少しくらいの余裕、温和な気持ちがあればこのような音を鳴らすことはないだろう。心の余裕がないものだとあっけにとられたと同時に憐れみの念すら抱いてしまった。
それと同時にふとある場面が脳裏に浮かんだ。
テニスコートで叫んでいるクルム伊達だ。
彼女は「ためいきばっかり」「シャラップ!」と叫ぶと言うよりも怒鳴り声を観客に浴びせた。まるで今鳴り響くクラクションのように。
さらに試合後のインタビューで、「これだけファンがたくさんいるわりに、見る側のレベルが上がっていない」と、観客を批判。「ため息はポジティブな反応じゃない。エネルギーを吸い取られる」と反省の色はなし。
私は以前上司から教えられた忘れられない言葉がある。
その言葉は「無心」だ。無心とは字のごとく感情がないことだと想っていた私に上司は「木鶏の教え」を語ってくれた。
それ以来、無心という言葉が私の糧となっている。
上司が語った木鶏の教えとは中国の故事で、「他の闘鶏が鳴いても、全く相手にせず、まるで木鶏のように泰然自若としている闘鶏」のことである。
そう何事にも動じない心、まさしくそれこそが「無心」だ。
70連勝がたたれた双葉山が師・安岡正篤に伝えた言葉「ワレ、イマダモッケイタリエズ」。そして33連勝中の横綱白鵬も、その記録がストップしたときに「残念です。未だ木鶏たりえず」とインタビューで応えていた。
無心になれなかったからこそ、このような結果になったと自分を客観的にみて反省をする。本当の強さをもつものだからこそ言いきれる言葉なのかもしれない。
同じようにクルム伊達が木鶏にはなれなくても、なりたいという思いがあったとしたら、このような言葉を発せず怒りを自分に向けたはずだ。
日本人でない白鳳が横綱としての帝王学を学んでいるように、日本人のスポーツのプロとして日本人にないテニスの観客のマナーを責めるよりも、自分磨きをするべきだと私は今回のクルム伊達をみて思った。
さらに国会で野次を飛ばす議員にも同様の言葉を投げかけたい。
野次ほど醜いものはない。野次を飛ばす前に選ばれたものとして帝王学を学ぶべきだ。
孔子の言葉「学を好み、怒りを遷さず」まさにその言葉につきる。
そして他人を許せる心の余裕をも人として持つべきである。
(古城 智美)