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『風土記』によると、相鹿の丘前(おかざき)の宮には倭武(やまとたける)天皇がいたという。そしてこの宮に、倭武天皇の后(きさき)の大橘比売命(おおたちばなひめのみこと)が大和からやって来て、この地でめぐり逢われた。だから安布賀(あふか)の邑(むら)といわれるようになったということである。
大橘比売命とは、『古事記』・『日本書紀』において、日本武尊が東国征伐の途中、相模から上総に船で海を渡ったところ海が大荒れとなり、これを鎮めるために海中に身を投げて亡くなった日本武尊の姤の弟橘姫(おとたちばなひめ)のことである。
『古事記』や『日本書紀』の記述からすれば、東国征伐で蝦夷を服従させ、やがて大和へ帰る途中の三重県鈴鹿で亡くなった悲劇の皇子日本武尊が、倭武天皇として常陸国に居住していたということは信じられないことであろう。また亡くなったはずの弟橘姫が生きていて常陸国までやって来たとなると、益々信じられない『常陸国風土記』の記述と思われることであろう。
しかし、『阿波国風土記』の逸文の「勝間の井」の記述中にも、倭建(やまとたける)天皇について書かれていて、倭武(倭建)天皇が実在していた可能性は高い。
ただし「天皇」という称号は、天武天皇(即位673年)以後とみられているので、それ以前は単に王か大王ということになろうか。外国からは、倭王、倭国王と呼ばれていた。ただ『常陸国風土記』は、その成立が720年頃であったから、既に定着していた天皇号を使用したのであろうと思われる。
倭武天皇が常陸国に居住していたことを前提とすると、倭武天皇は日高見国王であったことになる。そのことからすると、日高見神社の祭神の日本武尊と同一視出来よう。
そして武内宿禰と日本武尊の祭神を親子とみると、日高見国が高句麗系蘇我氏の国であるとみてきたから、日本武尊は蘇賀石河宿禰に比定できよう。そうなると倭武天皇は、倭武大王であったと考えられる。
「大王」の称号は、古代東アジア諸国において用いたのは高句麗だけである。それも高句麗王歴代28人中3人以外使用されていないのである。
6代大祖大王(在位53-146年)・7代次大王(在位146-165年)・8代新大王(在位165年-179年)の3代の兄弟大王である。
中でも大祖大王は、別名国祖王とも呼ばれ、高句麗を古代の部族国家から脱皮させ、征服国家を建設した偉大な大王とされている。
このため、高句麗の王統系譜もここから始まったともいわれている。ともかく高句麗にとって、画期的時代を開いた国王として、3人の兄弟王に大王の称号が贈られたということである。
この高句麗の前例から、蘇我氏の画期的時代、日高見国を建国した倭武は大王(おおきみ)となった。その実名は間違いなく蘇賀石河宿禰であろう。
『古事記』では、倭建命と弟橘比売命の間に若建王(わかたけるのみこ)が誕生したと書かれている。父の倭建命が倭武王であれば、その後継者の若建王は、やがて王位継承後には若建大王となることは必然である。
この若建大王こそ、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に刻まれたワカタケル大王の正体である。そして蘇我氏の系譜でいえば、蘇賀石河宿禰の子、蘇我満智ということになる。
蘇我満智は、807年に斎部広成が撰上した『古語拾遺(こごしゅうい)』の雄略天皇の段に、蘇我麻智宿禰をして三蔵(みつのくら)[斎蔵・内蔵・大蔵]を管理させたとある。つまり満智は、天皇家の祭事と財政、全国から集まる祖税の管理を全て一手に任されたというのである。
これはどう考えても倭国一国を統治する地位に居たということである。この結果、蘇我満智は倭国の統治者、ワカタケル大王であったといわざるを得ないのである。(おわり)