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外交評論家 加瀬英明 論集
キリスト教では、教会に行った時だけが宗教的になる。ちょうどアルコールを飲んでいる間だけ酔っているようなもので、全生活を律しているのではない。ここでは同じようなことを神社と、教会についてもいえよう。神社では神殿は神域の核であって、神木や、鎮守の森があり、全宇宙を包容するような広がりを持っている。都内の神社であると、隣がビルや、高速道路であったりするが、田舎へ行くといったいどこまでが神域であるのか、わからないような神社がある。ところが、キリスト教の教会や、仏教の寺も、一定の空間をなかに閉じこめる形をとっている。
私たちの主食は、米である。日本では二千年以上も穀霊を祭ってきた。鏡餅に戻ると、ちょうどキリスト教でパンと十字架が信仰の対象のイメージとなっているように、神道では鏡と餅とになるのだろう。そしてマンナを食べる(キリスト教では「拝領」という)する時には、キリストと自分の一致、あるいは宇宙と自分の奥にある真我との一致がはかられるが、神道では米や、餅がそれにあたることになる。
鏡が円形であることは、人間の本性にかかわることである。深層心理学によると、人間は精神的な危機に曝された場合には、円形を求め、精神病患者や、家庭的な危機に見舞われた子供に四角形を描かせると、しだいに円形になってゆくという。瞑想に用いられる曼荼羅は、正方形と円を組み合わせたものである。円をみると、私たちは安らぐのだ。
こういったことは、一つの例としてあげたのにすぎない。私は日常生活のなかで、時間には有機的な時間と、無機的な時間があると思っている。ジェット機でアメリカへ十数時間で飛ぶのは、無機的な時間である。それに対して花が咲くのにかかる時間は、有機的なものである。人間の子供が生まれるのに十月十日かかるというのは、大昔から変わっていない。そこで私が新幹線に乗っていたとしても、私自身は太古の人間と変わってはいない。
私にとって神道は一口にいえば、畏敬の念を懐くことである。こういったことが、現代の生活からまったく失われてしまうようなことがあったら、残念なことである。神々を敬うことは、あらゆるものを敬うことに通じる。他人を敬い、そして自分を敬うことにもなる。自分を大切にするといってもよい。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 11章 「日本の伝統」に学ぶ