トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ ほんとうの豊かさを知るには時間がいる
外交評論家 加瀬英明 論集
もっとも、私たちの生活が物質的に豊かになったのは、つい最近のことでしかない。そこで私たちの発想がまだ貧しい時代のものであっても、そう驚くことではないだろう。人間は長いあいだ貧しい生活を強いられてきたから、貧しさと共存する方法なら知っている。勤勉とか、倹約、子が親に、下の者が上の者に従順にしなければならなかったといった価値体系も、貧しさのなかで生きるために必要なものであったのだろう。
ところが困ったことに、豊かさがあまりにも新しいものであるだけに、私たちは豊かさについては貧しさについてほど、よく知らないのだ。人類は貧しさと戦う方法は身につけていても、豊かさと戦う方法はまだ見いだしていないのである。豊かさも貧しさと同じように、人間を困らせることができる。もっとも今日のような豊かさが定着して、あと十年か、二十年もすれば、豊かさのもとで生きる知恵が生まれることになるだろう。きっと私たちは過渡期に生きているのだ。
「断食」だとか、「精進」というと、今日の私たちにはあまり縁がないようである。しかし、ヨーロッパにはそういったことをもとにした祭りがある。西ドイツでは、春に大きなカーニバルがある。キリストが死んでから三日後に甦ったことを祝う復活祭のまえに「ファステンツァイト」と呼ばれる断食の期間がある。
「断食」と呼ばれていても、食べ物をいっさい食べないというわけではない。この間は、肉を食べない。だから日本人には精進といったほうが、わかりやすいだろう。禁欲期なのである。復活祭のまえの四十日間にわたるのだ。といっても、このような戒律は昔から守られたはずであるが、今日ではこの期間中、肉を食べない人はまずいないだろう。
「ファステンツァイト」にはいるまえに、カーニバルがある。この禁欲期にはいるまえに、この世の楽しみとお別れするとばかりに、夜を徹して酒を飲み歌い、踊るのだ。
このカーニバルは、二月に行われるので寒い。ドイツの冬の寒さは、文字通り肌を指すようである。この冬の夜に、公民館や、個人の家に集まって、仮装舞踏会が開かれる。ドンチャン騒ぎをするのだ。この晩は無礼講である。
そして夜が白むころに、パーティーをあとにして街頭に出ると、商人たちが屋台を並べている。ライバークーヘンや、串焼き、ホットドッグを売っている。ライバークーヘンというのは、ジャガイモと玉ねぎを下金で擦って、直径二十センチ、厚さ一センチぐらいのホットケーキ状にして、てんぷらのように油で揚げたものである。油っこいが、香ばしく、カリカリしていて美味しい。
串焼きは牛肉が主であるが、辛い、真っ赤なパプリカがたっぷりとかかっている。
ホットドッグといっても、私たちはアメリカ式のホットドッグに慣れているが、バカにしてはならない。ヨーロッパのソーセージにはコクがある。
ライバークーヘンや、串焼きと、シュナップスを啜りながら食べる。ライバークーヘンは油をいっぱいに吸っている。シュナップスはジャガイモからつくった透明な蒸留酒で、「火酒」と訳されているほどであるから、強い。それに厳寒であるから、酔いざめしないように身体を温め続けなければならない。屋台はカーニバルのときは、朝五時か、六時までやっている。
復活祭の前の「ファステンツァイト」は「四旬節」と訳されているが、この期間は、荒野で苦行したキリストをしのんで精進や、懺悔をすることになっていた。おそらく、この時期には肉を控えたほうがよいという保健的な理由があったのかもしれない。もうカーニバルということばは日本語のなかに定着しているが、昔は「謝肉祭」と訳されていたものである。ローマ時代に発祥したもので、キリスト教初期に農業を司る神であったサトウルヌスに感謝する冬至祭という。多神教の収穫祭がキリスト教に持ち込まれたものだといわれている。カーニバルといえば、リオデジャネイロが有名で、アメリカではニューオリンズであるが、私は両方とも行ったことがない。
さて、日本でも飲み食いと祭りのあいだには密接な関係がある。そして祭りのまえには、神霊を祭る者は、同じように精進しなければならなかった。昔は東西を問わずに貧しかったし、いつでも暴飲暴食できるわけではなかった。それに酒は、神事と固く結びついていた。日本の祭りのなかで最も重要なものであるとされている新嘗祭では、秋にとれた新しい米と酒を神にすすめ、神と人とが共に食べ、飲むのである。このような祭りは、神霊の恵みに感謝するために行われた。
ところが今日では、祭りからも、日常生活からも、食べ物について感謝の念が失われてしまった。祭りは観光化してしまって、ほんとうの喜びが少なくなってしまった。
それでも、ドイツのカーニバルの夜は楽しい。まだ、日本に正月の楽しさが残っているようなものだろう。いつでも美味しいものが望みさえすれば食べられるというのは、よいことであるが、一面、饗宴からほんとうの楽しさを奪ってしまったようである。禁欲的な生活には報酬があるものである。
水ひとつとってみても、わたしたちは生命を維持するために、水を飲まなければならない。しかし、水は洪水を起こして人間を殺すこともできる。そして、ついこのあいだまでは、食べ物が足りなかったので、感謝の心を持って食べたものであった。ところが今日では豊かになったために、食べ物や酒も豊富にある。過多なほどある。一種の洪水だ。
私たちは食べ物だけではなく、衣類からあらゆるものが過多になっている。この洪水に押し流されそうなのだ。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 四章 「贅沢」という名の「貧しさ」