トップページ ≫ 社会 ≫ エベレストで逝った2人の日本人登山家
社会
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世界最高峰のエベレスト(8848m)を単独・無酸素(ボンベ)での登頂をめざしていた登山家・栗城史多(くりきのぶかず 1982年生まれ)さんが滑落し、遺体で発見された。彼はエベレストを除く世界6大陸の最高峰に単独登頂した後、ヒマラヤの8000m峰4座を単独・無酸素で登頂してきた。
身長162cm、体重60kgで、肺活量や筋量も成人男子の平均以下という体格を乗り越えての成果だ。しかし、エベレストは何回も挑みながらも成功には至らなかった。2012年の挑戦では凍傷により両手の9本の指先を切断した。
飛行機の窓からでしかエベレストを見ていない私だが、栗城さんの死を悼んでいたら、36年前にやはりエベレストで消息を絶った大宮出身の天才クライマーを思い出した。加藤保男さん(1949年生まれ)である。1973年のエベレスト登山隊に兄・滝男さんの代役として参加した。背が高く、体力面でも抜きん出ていた彼は、最後のアタック隊員2人の中に入り、秋季における東南稜からの初登頂をはたし、史上最年少のエベレスト登頂者となった。
しかし、酸素ボンベの故障もあって凍傷を負い、手の指3本と両足指のすべてを失った。彼の長姉によれば、「180cm、72kgの身体を支えた27cmの足が18cmと19cmになってしまい、両足のかかとだけで山に登るのですから、人の何倍もの力が必要でした」という。重度4級の身障者となり、医者からは「6000m以上は禁止」と言われたが、1976年にインド・ヒマラヤ最高峰、7816mのナンダデビィに登り、再起をはたした。
1980年にはエベレストに中国ルートで挑み、北東稜隊リーダーとして、このルートからの単独初登頂に成功した。こうして彼は2ルートから世界最高峰をきわめ、季節も春と秋の別々という世界初の偉業を達成し、「Mr.エベレスト」と呼ばれるようになる。1982年には冬の単独登頂を東南稜から挑み、成功するが、下山途中に消息を絶つ。
1980年の2度目のエベレスト登頂の後、私は加藤さんの講演を聞く機会を得た。朝日カルチャーセンターが企画した「冒険」シリーズ講座の第1話。受講者が50人程度で、彼は歯切れよく自分の経験を披露した。当時は「Mr.エベレスト」として引っ張りだこだったようで、「著名人と会うことが多くなった」と得意顔だった。手足の指を失ったことも淡々と話し、それを感じさせない動作だった。むさい山男のイメージとは無縁で、スマートで都会的な外見だった。
それから間もなくしての遭難の報はショックだった。翌年、大宮市民栄誉賞(第1号)が贈られ、告別式も大宮・桜木町の安楽寺にて盛大に行われた。さらに2年後、関係者や友人の手によって『加藤保男追想集』という900ページ近い書籍が刊行され、優れた登山家であるとともに、明るく前向きなキャラクターで愛された彼の人間像を描いている。
深手を負いながらもエベレストに挑み続けた、対称的な2人の登山家の冥福を祈りたい。
山田洋