トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 女性を口説くとき、やまと言葉に限る理由
外交評論家 加瀬英明 論集
「愛」とか、「愛情」とかいう表現は、明治に入ってから外国の「ラブ」という言葉に合わせて、使われるようになったものだ。母親が子に、「〇〇ちゃん、こんなに愛情をそそいでいるのに、何をしているの?」といって、詰(なじ)るのは、見返りを求めている。日本では、「慈(いつく)しむ」という。見返りを、求めることがないのだ。
日本人は神代の時代から、心情が変わっていない。
中国から漢字が入ってきてから、すでに2000年近くがたっていよう。
卑弥呼(ひみこ)の時代に、中国から選ばれた、漢字が刻まれた銅鐸(どうたく)が、多く出土している。3世紀半ばのことであるが、卑弥呼の部下たちに、その文字が読めなかったはずがない。
時代とともに、日本語のなかにおびただしい漢語が、あふれるようになった。
それにもかかわらず、今日でも、相手の胸を打とうとしたら、漢語にはそのような力が籠(こも)っていないから、漢字が入ってくる以前のやまと言葉を使わなければならない。やまと言葉は、和語ともいう。
「国家のために、生命(せいめい)を捧げる」といったら、よそよそしい。「国家」「生命」は、漢語だ。上滑(うわすべり)する。やまと言葉を使って、「国の為に生命(いのち)を」と、いわなければならない。いまだに漢語は借り物だから、心に根を深く降ろしていないのだ。
「憧憬(どうけい)」といっても、心を動かさない。「あこがれ」「したう」「こがれる」といわねばならない。「生死(せいし)」ではなく、「いきしに」だ。
「恋愛」ではなく、「こい」である。「怨念(おんねん)」といってはならない。「うらみ」が、本音の言葉だ。
もし、異性を口説こうとしたら、漢語を避けて、やまと言葉を用いなければならない。漢語も、カタカナ化された西洋語も、胸から遠いところにあって、近くにない。
いまだに漢語は、中国語なのだ。中華料理のように、油臭い。中華料理屋のメニュウにふさわしい。そこへゆくと、やまと言葉は清く、穢(けが)れがないのだ。
日本人は漢字を使い馴らし、飼い馴らすために、振り仮名を考案した。世界の言語の中で、ルビが存在するのは、日本語だけだ。
二葉亭四迷(ふたばていしめい)の『浮雲(うきぐも)』の書き出しのなかから拾ってみただけで、「挙動(ふるまい)」「暴(やけ)」「服装(みなり)」「配偶(めおと)」「亀甲洋袴(かめのこずぼん)」といったように、ルビが多様されている。
ルビは振り仮名に使われる活字の大きさの呼び名だ。もとは、英語だ。『浮雲』は明治20(1887)年に稿を起こして、三編から構成された。明治34年に三編の合冊が、出版された。
もし、私の意見に賛成しないとしたら、漢語で異性を口説いてみてほしい。十中十、成功することはありえない。
現代という時代に生きていることに、あまり自信をもってほしくない。
言葉は、人をつくっている。もっとも強力な鋳型である。
漢語も、明治訳語も、カタカナ西洋語も、借り物にすぎない。好もうが、嫌おうが、自分のなかに、古代からの心を受け継いできた日本人が住んでいることを、認めなければならない。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 第7章 やまと言葉にみる日本文化の原点
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