社会
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岸田内閣は大臣の交代が相次ぎ、それぞれの辞任には当然の理由があった。その中で葉梨康弘氏の「法務大臣は死刑のはんこを押した時だけニュースになる地味な役職だ」との一言は受け狙いとはいえ、警察官僚出身の政治家とは思えない軽さに呆れはてた。当欄に数年前、死刑になった永山則夫と東京拘置所で面会したことを書いたが、その後、刑務官時代に永山と縁があった坂本敏夫氏(75歳)の話を聞く機会があり、犯罪と刑罰という重いテーマを考える機会が増えた。
坂本氏は死刑執行や拘置所、刑務所についての著作が多い。『誰が永山則夫を殺したのか――死刑執行命令書の真実』(幻冬舎アウトロー文庫)では、「本来死刑判決を受けるべき犯罪者が死刑を逃れ、死刑になってはならない者が死刑になっている事例が確実に存在する」と指摘している。そして拘置所死刑場で見てきた死刑執行、それを待つ死刑囚たちの実像を描いている。特に19歳の時に拳銃で4人を殺害し、死刑執行された永山には深い思いを寄せる。
北海道網走で生まれ、4男4女の7人目の彼が中学の時に父が野垂れ死にし、極貧生活を強いられ、学校にも満足に行けなかった。集団就職で上京するが職を転々とし、横須賀の米軍基地宿舎から盗み出した拳銃で次々に4人を射殺した。逮捕されてからの彼は読書に没頭して知識を修得、自分の気持ちをノートに記し始めた。
当時、週刊誌編集部員だった私は、そのノートの公開依頼で面会したのだが、警戒心もあってか、取り付く島もなかった。永山ノートは『無知の涙』として他社から刊行され、社会を糾弾する内容が話題を呼び、ベストセラーになった。その後も執筆を続け、本の印税はすべて被害者の遺族に届けられた。
「最も改心した死刑囚・永山則夫を誰が殺したのか? 死刑の執行命令を他人事として議論するのはやめよう。われわれが殺したのだから。議員内閣制の民主主義では国民の代表である国会議員が法務大臣になるのだからそういうことになる」とまで坂本氏が書いたのは1997年3月に神戸で14歳の少年による連続児童殺傷事件が起き、この機会にと永山の死刑執行を急いだという政治的配慮を指しているはずだ。
この本では、1948年に熊本県人吉で夫婦が殺害され、娘2人が重傷を負った免田事件も詳述されている。犯行にナタが使われたため、警察は元気な若者を犯人と想定し、山小屋で寝ていた免田栄氏を連行した。人吉署で拷問が加えられ、警察の作った筋書きを認める自白をさせられた。警察はありもしない血のついたナタを押収したと言い張った。
熊本地裁では死刑判決で、控訴や上告、再審請求が何度も棄却され、1981年になってやっと再審第1回公判となり、2年後に無罪が確定した。坂本氏が免田氏と会ったのは刑務官を辞めた翌年の1995年で、穏やかで気配りのできる紳士だったという。本人の許可を得て『免田栄獄中記』が転載されているが、感動的な内容だ。死刑囚同士の友情、処刑が近づくにつれ悶え苦しむ姿。仏教やキリスト教の教誨師により信仰を得て静かに死を受け入れる者もいた。
免田氏は「再審請求」という言葉を神父から聞き、六法全書などで必死に調べて書類を自分で作った。罫紙数冊と鉛筆などをくれた刑務官もいた。その免田氏に再審の相談を持ちかけた死刑囚もいた。連れの年長者が犯した殺人の主犯に仕立てられたのだ。しかし、再審の成功は至難で彼も途中で投げ出してしまい、間もなく処刑された。坂本氏は「死刑制度はあるが執行が停止されている。そんな状態が最も誇るべき姿だと考えている」と結んでいる。
山田洋