トップページ ≫ コラム ≫ 男の珈琲タイム ≫ 明治・大正のふたりの偉人 渋沢栄一と滝沢喜平治
コラム …男の珈琲タイム
深谷が生んだ日本資本主義の巨人・渋沢栄一に関する出版を進めるにあたって、初めて渋沢の偉大さを知った。何を今さらと思われるかもしれないが、筆者の学生時代を通して、渋沢栄一の名を知ることはほとんどなかった。政治史を学んで初めて渋沢の名を知り、今回1万円札の肖像となる渋沢を学んだ。その偉大さを書きあげたら枚挙に暇がない。渋沢は500社ほどの会社をつくり、資本主義の元締めとなる銀行の創設にも力を注いだ。まさに日本資本主義の父と呼ばれるに相応しい人だった。その資料を調べていくうち筆者を惹きつけたのは、渋沢より8年遅れて栃木に生まれた滝沢喜平治という実業家だった。滝沢はとてつもない大地主だった。実業家、政治家として、国家の殖産事業に大きく関与した。彼が作った銀行、あるいは関与した数は十桁を超え、絹糸を始め、農業の基をなす、新しい肥料の開発。600ヘクタールの広大な山林の開発を初め、数々の事業を展開し、出生の地・栃木の発展に多大なる貢献をした。自らも貴族院議員、県議会議員として活躍。政治・実業の両面にわたって、足跡を残した。さらに渋沢とはかなりの連携を保ちつつ、殖産事業を促進させた。そして間接的にしろ、当時の名だたる実業家・大倉喜八郎や安田善次郎とも接触があったのだ。渋沢・滝沢は歴史の表面にでてこない知られざる名コンビたったと推測することも可能なのだ。さらにこの二人の偉人は、揃って人望が厚く、人望家としても多くの事業、多くの人々に手を貸し、教育や病院の建設にも情熱を傾けた。今も滝沢翁の屋敷は、文化財として栃木県さくら市櫻野地区に堂々たる偉容を保ちつつ残っている。見物客は後を絶たない。奇しくも、この偉人の血を受け継いだ曾孫達は、さいたま市・深谷市にとそれぞれの道で活躍している。
鹿島修太