トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 日本人はつねに演歌的感情を持つ
外交評論家 加瀬英明 論集
歌だけではない。マスコミをみても、日本人は暗い話のほうを好む。いかに日本経済が世界から羨望されるほどうまくいっていたとしても、うまくいっているとか、未来はいっそう明るいものだというようなことを読んだり、聞いたりすることは好まないのだ。未来は困難なものであると悲観的に考えがちである。
日本人は個人としては積極的になれないところがある。演歌にまた戻れば、別れたいけれど別れられない、どうしようもない感情を歌っているものが多い。断ち切ればよいのに、断ち切れない無力感がある。人間関係がねばねばしたセメダインか、トリモチのようなもので結ばれてしまっている。そして、底から本当に飛び立つ燃料も自分のなかに持っていないし、方法も知らない。十二音階のうち、古賀メロディーをはじめとする演歌が五音階しか使っていないように、大きな部分が欠けてしまっているようである。
これは捕われた、閉された世界である。強い自己憐憫が行われている。もちろん、その裏には甘えがある。ことさら演歌に関心がない者だって、日本人であれば演歌的な感情はわかるものである。
アメリカや、ヨーロッパの流行歌の歌詞には、「おれは河原の枯れすすき、花の咲かない枯れすすき」といったような、陰惨なものはない。それでも、この『船頭小唄』は、私も好きな歌の一つである。親しい韓国の友人で酔うとこの歌をうたう者がいるが、韓国人にもわかるものなのだろう。
日本人は個人としては、いつも無力感に苛まれている。個人が持つ力を信じられないところがある。そこで自分ひとりの力で物事を変えられる、と思うような積極性を欠いてしまっている。おそらく権力を握っている閣僚や、高官のような人々でも、自分ひとりではどうにもならないといった、深い無力感があるのだろう。
だから「だめですなあ」とか、「難しいですなあ」といった会話が多い。国民として悲観論を好むのも、こういった積極的な態度を一人ひとりがいだいているからなのだろう。これは自己否定の延長である。しかしどのような問題であれ、悲観論のほうが力を持ってしまうと、社会から明るさを奪ってしまう。もちろん、ある程度の悲観論は前途を警戒させるのにも、適度な緊張をもたらすためにも必要である。だが過度になってしまうと、社会から進取の活力を奪ってしまうので好ましいことではない。
演歌は、民族の悲鳴のようである。たしかにカラオケのマイクを握るのは、自己表現になるのだろうが、三、四分間では、ここに俺さまがいるという、か細い自己主張になってしまう。そして互に「どうせわたしは」といった歌をうたうのでは、汚れたハンカチの交換会のようになってしまう。
それでも、この十年ほどはとくに若い世代のあいだで当たっている歌には、明るいものが多い。最近のものでは、ピンクレディの『サウスポー』は王選手をモデルにしているのか、すごいやつがやってきたというお囃子のような朗らかな歌だ。やはりピンクレディの『渚のシンドバッド』もサーフボードをこわきに抱え、美女から美女へといったように陽気で、底抜けに明るい。梓みちよの『恨みっこなしで別れましょう』は思い切りのよい、新しい人間関係が現れつつあることを思わせる。若い世代は変わってきているのだろう。
〝ザ・フォーク・パロディ・ギャング〟という若者たちのグループが関西で小遣いをだしあって、自分たちでつくった『帰って来たヨッパライ』が、全国で当たったのが、今から十年ほど前のことだった。楽しい歌だった。こういった新しい歌には、これまでの演歌にはみられなかったユーモアや、活力がある。ユーモアは物事に対して一歩離れて眺められるゆとりである。
といっても、演歌の持っている力は強い。レコードの売上げの順位をみても、いつも上位に入っている。演歌は日本の空気のなかに、つねに微粒子のように飛んでいるのだ。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 二章 「演歌」にみる精神構造