トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(4)「市長の女・後編」
文芸広場
俳句・詩・小説・エッセイ等あなたの想いや作品をお寄せください。
もう桜は散って、若葉が光っていた。初夏の陽が眩しく、窓ガラスに鋭く反射していた。
窓の向こうは小高い丘陵が広がっている。新緑が溢れて笑い合っているような明るい光景が窓という長方形の額を彩った。
山崎は眼鏡越しにその風景に見入りながら、華美の到着を今か今かと待っていた。
紺色のスーツで身を固めた華美が急いでやって来た。
「前にも言ったように、信濃春彦を頼む」
山崎は華美に有無を言わさず強い口調で言い渡した。
春彦の事務所からは、小高い丘陵がよく見えた。自然はどんなに優れた芸術家も勝つことは出来ない。黄緑色に燃える姿は何億年も昔、地球が創った鮮やかなパノラマだ。春夏秋冬、季節の変わり目の度に春彦は感動していた。そんな時春彦は、詩人になったり歌人になっていた。政治の原点は文学だというのが春彦の哲学でもあった。
電話が鳴った。何かの予感が春彦の五体を走った。
―― 出てはいけない電話なのかもしれない・・・と思いながらも、支持者かもしれないという迷いが春彦の右手を動かした。
受話器の向こうで、どこか聞いたことのある女性の声が響いた。
「ごめんなさい。あの、先日お会いした、あの、覚えていらっしゃるかしら?華美というものですが」
その声は艶かしいライン川の美しい妖精のように船乗り達を波間に引き込む魔性のささやきのようだった。
―― これも又、西川の軍師達の仕組んだ罠だな・・・。
鋭い直感が春彦の体を走った。
「ああ、華美さん。あなたまともな道を歩んだ方がいいよ。まだまだ若いんだからね」
春彦は心を鬼にして受話器を切った。後悔のようなものが残って、数十分くらい心が重かった。
―― これでいいんだ。誘惑には絶対負けないぞ・・・。
春彦は自らに言い切った。遠くで山が笑っていた。
延期されていた議会は、春彦の意向を無視したまま開会された。
議長の職権の乱用だった。
春彦の怒りは頂点に達した。
―― よし見過ごすふりして、必ず諸悪をやっつけてやるぞ。
そんなときの春彦のエネルギーのボルテージは、常人には考えられない程高まって天井を知らなかった。
政治における正義は〝百万人と言えども我往かん〟だと信じていた。
そして政治における最も必要なものは、勇気だと春彦は信じ切っていた。
本会議で質疑が行われた。皆、形式だった。議長の有田は落ち着かない目で時々春彦を見ては又、目を伏せていた。
彼はポケットに強行採決のメモを忍ばせていた。
執拗に責め立ててくるのは春彦だけだ。野党の革新系にはそれなりのことはしてある。
だから市長や議長にとっての敵は春彦だけだった。
質疑に立った春彦は、自信を持って言い切った。
「もし、この不正な予算を議会が通したら、H市の議会史上、重大な汚点を残すことは間違いありません。議会は市民のせつなる想いの代弁者でなければなりません。そのために我々は選良という名誉ある言葉を頂いているのではありませんか。我々は社会正義の確立のために議会の場に送り出されている事を忘れてはならないと思います」
議場はやじ一つ飛ばなかった。正論の前に、さすがの旦那衆達も声すら失っていた。しかし、腹の中はウラハラで、「この若造、生意気言いやがって」 と歯軋りをしていた。
突然、議長がメモを読み上げた。
「質疑を終結します。直ちに採決を致します」
「議長!」
叫んだと同時に、春彦の体は宙を舞い、飛んだ。走った。そして議長席によじ登り、その薄汚いメモを取り去った。
議場は騒然とした。
「このような暴挙を許すことは議会の恥だ」
と春彦は怒鳴った。
長い休憩となった。
とにかく強行すべきだというのが多数だった。
春彦の心は収まらなかった。と同時に正義で突っ走る事の虚しさを痛い程感じていた。
春彦の抗議で議会は三日間ストップされた。市長の西川は苛立っていた。
小田が春彦を訪ねた。
「信濃君ね、あの予算を通してくれたらさ、俺が他の十五軒の道路の予算は必ず市長に出させるからさ、な、信じてくれよ」
結局、予算は四日目に多数の力で可決された。
市長の西川は、議場に深々と頭を下げた。
春彦の姿は議場にはなかった。
春彦は政治的孤立の日々を余儀なくされた。
「一体、なんでこんな世界に足を踏み入れてしまったんだろう」
自問自答が続いた。
そんなある日。意外な人物からの電話があった。
「春彦君、黙ってわしのところに足を運んでくれんかな」
もう数年も会っていなかった〝智深和尚〟の声だった。禅宗の高僧で、H市の名物和尚だった。春彦が、市議会議員に初めて立候補した時も、「あそこを訪ねろ、あっちに挨拶に行け」と応援してくれていた。
初夏だというのに、火鉢には火がついている。
和尚は春彦に背を向けたまま、火箸で静かに炭を掻き分けていた。
「春彦君、政治とはなんじゃ?」
和尚の背中は、「春彦よ、悟れ!この青二才め」と言っていた。
春彦は答えられない。そこには、大学で学んだ政治学も、政治哲学もなかった。
(そんなものは何の役にも立たん、現実を見よ!)
和尚の身体が全身で春彦を叱っていた。
一時間が過ぎ去ったのだろうか。実際は十分ぐらいだったが、春彦には気の遠くなるような時の経過に思えた。
「いいか。政治は妥協じゃ。妥協の出来ぬ奴に政治家は務まる筈はない。そして、激しい意志だ。戦い貫く強い生命の炎を燃やし続けることだ。人生も政治も巡礼じゃな」
どこかの小説の場面のようだった。
妥協と戦う意志。この二律背反をどのように解釈したらいいのか。若い春彦には分からなかった。
したたるような庭の緑が、春彦には息苦しくさえ思えた。海底のような静寂の中で、春彦は深海魚のように動かなかった。というより、動けなかった。
和尚は振り向きもせず立ち上がった。だだ広い本堂の奥へと和尚の姿は消えた。
―― 妥協・・・・戦う意志・・・。
春彦はまるで鈍牛のように反芻した。
夏がそこまで来ていた。
春彦の顔前に広い真夏の海原が広がった。そして実存哲学者としてのカミユが晴彦の脳裏を稲妻のように走った。
―― 人は社会に投げ出された存在なのだ。ならば、海の彼方まで自分の夢を思い切り広げればいい・・・。
幻の海原を春彦は翔んでいた。
翌年。春彦は副議長に就任していた。全国で最年少の副議長だった。
春彦は、変わった。誰の目からもそれが分かった。といって、春彦から正義感が消えたわけではない。むしろ以前より強くなった。そして、春彦は他人の痛みや悲しみを積極的に理解するようになった。人の持っている弱さにも寛容になった。
―― H市を日本一の街にしたい!
春彦は悲願のよう想い続けた。
―― そのために、不断の努力を惜しむまい、一本の矢のような信念を持って茨の道を突き進むのだ!
一方、市長の西川達は以前と全く変わらなかった。
「信濃の奴が丸くなったから、やりよくなったな」
と安堵の胸を撫で下ろしていた。議場でも相変わらずの答弁を繰り返していた。
「市長、このH市の清流を永遠に守るために具体的な施策は?」
「ええ、五万人の市民が皆、いなくなれば、川はきれいになりますな」拍手が沸いた。
「市長、明日のH市をどのように考えていますか?」
「ええ、明日は明日の風が吹きますので」応援のヤジがとんだ。「その通り!」「異議なし!」
万事がこんな具合だった。
(つづく)