トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「過剰接待国」なのはなぜか
外交評論家 加瀬英明 論集
ところが西洋では個人が単位となっているので、家庭のなかでもかなりなまで互のプライバシーが尊重される。親子や、兄弟であっても相手の部屋に入る時には、ドアをノックする。家族どうしであっても、相手を個人として意識する部分があるのだ。いい替えれば、日本人は個人としての外皮があまり発達していないが、西洋人には、そのような固い皮膚がある。
そこで西洋の家では応接間や、食堂はちょっとした公共の場のような感じがある。楽屋裏ではないし、内と外の区別を日本のようにはっきりとつけないので、そのままの状態で客を自然に招き入れることができる。日本では、家庭は外の者がいつ入ってきてもよいような状態になっていない。そこでふいに訪ねてくる人がいると、主婦がなかを見せまいとして、ドアの間から鼻だけ出して応対するようなことにすらなってしまう。日本では内輪の関係でなければ、もてなす側と客との間は、ぎこちないものとなってしまう。客と自分とを同列に置けないので、客を大事にしすぎることとなって現れる。内と外の者とにつねにわけねばならないが、客は外の人間なのだ。
西洋では人間は個人であって、もちろん親しさによっても接しかたは変わろうが、日本のように内と外の者とにはっきりと分けることはない。そこで西洋人の家庭に食事に招かれると、出てくる料理もたいしたことがなくて、拍子抜けしてしまうことになる。
日本は過剰接待国である。接待にあたっては、気前がよすぎる。〝社用族天国だというようなことがしばしばいわれるが、過剰に接待する文化が下敷きとなっていなかったならば、〝社用族天国〟も生まれなかったことだろう。ニューヨークや、ロンドンをはじめとする、アメリカや、ヨーロッパの都市には、日本だったらどこの都市でもある、バーやクラブがひしめく紅灯のネオン街はない。たしかにニューヨークのグリニッチ・ビレッジや、ロンドンのソーホーにはそういった一角もあるが、小さなものだし、一般の人々が通うところではない。
だから日本の駐在員の人口が大きい外国の都市となると、日本人ばかりが集まる、日本式のクラブや、サロンができる。私はニューヨークにある、こういった店に何軒か案内されたことがあるが、銀座のバーと同じように、座るとホステスがおしぼりと怪しげな突出しを運んできて、わきに座る。酒を飲む時には、かならず何か食べるというのは日本独特なことで、酒菜と書くが、こういった店にはたいていピアノがあって、日本人客がマイクを片手にカラオケを放吟する。
ホステスの半分ぐらいは、アメリカに何でやってきたのかわからないような日本女性で、残りがアメリカの女性である。しかし、和服を着たママが「いらっしゃいませ!」と呼びながら、客席を縫って小走りに迎えに出てくるのをみると、そのまま日本のバーを移してきたようなのだ。たまに外国人の男客が日本人に連れられて来ているが、日本でだってたまには外国人客の姿を見るものだ。
「まるで日本国ニューヨーク市のようですね」と感嘆して、私は案内してくれた商社の駐在員にいったことがある。こういった店はニューヨークが日本の地方都市に過ぎないような錯覚にとらわれてしまう。勘定も、すぐ二、三百ドルになって銀座並みだから、阿保らしくてアメリカ人は自分では誰一人来ない。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 7章「家庭」のなかの個人