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コラム …男の珈琲タイム
あんなに艶やかに咲きほこっていた桜が、その終りをむかえようとしている。仏教詩人 坂村真民の一行に「人間はいつかは終りがくる。前進しながら終るのだ」というのがあるが、まさに桜にはぴったりだ。懸命に咲きほこりながら終焉を迎えるのだ。日本人の無常観を桜ほど喩してくれるものはなかろう。散る桜、残る桜も散る桜なのだ。
むかし、「桜に賭けた男」のドラマを観たことがある。まだ60歳にも至らない男が余命を告知されて、ある決意をした。自分の愛する街を桜で埋め尽くそうと。だが、完全に埋め尽くす前に男の寿命は切れた。男は幽明境の中で男の桜が咲きほこり、男を手招いている幻を見る。桜には精霊のようなものがあると、いつも私が感じるのはそんなドラマの想い出が影響しているのかもしれない。平安時代の僧であり歌人であった西行が〝ねがわくば花の下にて春死なん そのきさらぎのもちづきのころ〟とうたって、そのとおり黄泉の国にいったというが、心を打つ歌だ。
私は桜の下にくると、どういうわけか静かに合掌をする。長年の習慣になっているといっていい。詩人の高田敏子さんの感化がある。
合掌する人の心模様は「右の手の悲しみを左の手が支え、左の手の決意を右の手が受けとめる」とある。深いではないか。
私は一生、この合掌を続けていくつもりだ。
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