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713年5月2日に好字令が出された9日後に、武蔵・相模(さがみ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の5カ国に対し、今まで調(ちょう)郷土の特産物を納める税]は麻布であったところ、今後は絁(あしぎね)[粗悪な絹織物]も合わせて上納するように命令が出された。
その2年後の715年5月30日には突然、武蔵・相模・上総(かずさ)・上野・常陸・下野の6カ国の、富裕な住民千戸、約2千人が蝦夷地(えみしのち)の陸奥(むつ)国へ強制移住をさせられている。
その穴埋めに、翌716年5月16日に、駿河・甲斐・相模・上総・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・下野の7カ国にいた高麗(こま)人1799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を置いた。
この朝廷の政策は、武蔵国の弱体化を狙ったものであることは、その後も住民の強制移住、兵士や軍事物資の徴発が続くことからもみえている。武蔵は完全に奥羽(おうう)蝦夷対策の兵站(へいたん)基地にされたのである。
朝廷の武蔵国と坂東諸国に対する政策は、過去に坂東諸国と朝廷との間に大きな紛争があったのではないかと予想される。
それを前提とすると、朝廷は素直に「わるい心がない」という意味の无耶志を好字に変換するとは考えられない。むしろ「罪を犯しながら、みずから心に恥じないこと」という逆の意味を持つ無慙(むぞう)を无耶志にあて、そして表記を同音の武蔵(むぞう)とし、「むさし」と読ませたのではないかというのが私のこじつけの論である。また「むさし」とは「きたない」という意味でもあるから、武蔵という国名は、朝廷による汚名ではないかとみる。
汚名の実例は769年、道鏡の意に反した和気清麻呂(わけのきよまろ)が、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に、姉の法均(ほうきん)は広虫売(ひろむしめ)という汚名を着せられている。
汚名とは、悪名(あくめい)という評判の悪い名前と違って、一種の呪いがかけられた名前で、やがてその汚名の主が滅びることを願ってつけられたものである。
朝廷が坂東諸国を敵視していたことは、715年から802年までに5回、4万5千人の住民が陸奥・出羽・雄勝(おかち)の柵戸(さくこ)[蝦夷支配のための前進基地である城柵に入り、自給のための農産物を作る農民と、征夷における兵士の役割を持たされた強制連行された人々]とされたことからも理解できよう。武蔵からは4千7百人ほどである。
そればかりでなく征夷軍兵士として、724年に坂東9カ国から 3万人の兵が、781年数万、788年には、東海・東山・坂東諸国で 5万2千8百余人の兵士が徴発されている。
また794年に10万人、801年に4万人の兵士が徴発されたことが『日本後紀』の811年5月19日における征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)への嵯峨(さが)天皇の言葉の中に見えるが、おそらくこの兵の中にも東国の兵士が多数を占めていたことと思われる。武蔵国にとっては非常に厳しい状況であったろう。(つづく)