トップページ ≫ 地域情報 ≫ さいたま史 ≫ 国宝金錯銘鉄剣の銘文から古代を読む ② (全3回) 小林 耕
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ただしこの称号は、中国王朝の皇帝の命令書によってその地位が授けられる。冊封(さくほう)という制度であって、古代倭国において最高権力者が勝手に名乗ることのできるものではなかった。つまり中国王朝の支配体制に組み込まれることによって授けられる称号なのである。
その始まりは『後漢書』<倭伝>において、後漢の光武帝が建武中元2年[57]に、倭の奴国王に印綬を与えた、と書かれていることから、紀元57年ということになろうか。
この物的証拠品が、奴国の本拠地の博多湾岸、志賀島叶埼出土の「漢委奴国王」と陰刻された純金蛇鈕(だちゅう)の約2.3センチメートル角で、厚さ1.3センチ、蛇鈕までの高さ2.2センチメートル程の印である。出土したのは江戸時代の1784年である。
この国宝の金印に刻まれた5文字の読み方は、「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」というのが一番有力である。しかし「委」を「倭」の省略とみても、余り意味のない読み方である。これでは光武帝が奴国王を、紀元前108年に開設された楽浪郡の海の中に、倭人が住んでいて、分かれて100余国あった[『漢書』<地理志>]というその諸国の統一王に冊封した意思が伝わらない。
私は『隋書』<俀国伝>の開皇20年[600]の記述にある「云委我弟」[云(い)う、我が弟に委(ゆだ)ぬ]と同じ読みをすべきであると考えている。
つまり、「漢委奴国王」は[漢は奴国王に委ね]と読み、後漢朝は奴国王に倭国の統治権を委任する、という意味であるとみる。
『後漢書』<倭伝>は、安帝の永初元年[107]に使者を出し、生口160人を献上してきた王の名前を、倭国王・師升(すいしょう)と記録していることは、57年以来、倭国の王は中国王朝の任命により倭国王の地位が授けられていたということを示している。
さらに『三国志』<倭人伝>の景初2年[238]の12月の条に、魏の明帝は、倭の女王卑弥呼に「親魏倭王」の称号とともに金印紫綬を賜った、とある。
この称号の一般的な読みは、「魏のしたしい倭王」である。しかし、この称号が外国の臣[外臣・服属した外国の王]に与える最高のものであるのに、魏国皇帝が親しい間柄により倭王に任命したように解釈出来る読みには同調しかねる。
私はこの「親」は、「親任(しんにん)[天子が自ら官吏を任命すること]」の省略ではないかとみる。そうすると「親魏倭王」は、「魏国皇帝が自ら任命した倭国王」という読みとなり、金印授与により金印が倭国王の身分証明の証拠品の役割を果たすからである。恐らくこの卑弥呼の金印も出土すれば国宝は間違いないであろう。
247年頃卑弥呼が亡くなり、宗女[卑弥呼と血縁関係にある女子]の台与(とよ)が13歳で女王となったが、倭国王に中国王朝から正式に任命された記録はない。
しかし、我が国の最高権力者の称号が、卑弥呼の時代以降も倭国王であることに変わりはなかった。このことは492年に成立した[宋書]<倭国伝>が記録している。
倭の五王の讃(さん)が死んで弟の珍(ちん)が王となると、珍は中国宋王朝(420年建国)に使者を派遣し、上表文を奉(たてまつ)り正式に官爵を認めてほしいと求めた。その結果、438年に珍は、安東大将軍も倭国王も自称せざるをえず、不安定な立場に居たことがうかがえる。
珍の次の倭王の済は、443年に倭国王に任命された。済が死に後嗣(あとつぎ)の興が使者を遣わし貢献してきたので、宋の孝武帝は興に爵号を授け、安東将軍・倭国王に、462年に任命している。
興が死んで弟の武が国内では王位に即いたが、すぐには倭国王に任命されなかった。というのは、478年の武の順帝への上表文中に「にわかに父[済]と兄を喪(うしな)い」とあり、兄興が倭国王に任命された462年以降、武が上表文を宋朝へ奉る478年の間に異変が起きたことを示唆(しさ)し、その混乱により宋朝への使者が出せず、結果正式な官爵が授与されず、武は倭国王を自称していたのである。(つづく)