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男の珈琲タイム
男のホットひと息コラム
新着記事
- 地方の帝王 ―市長の事情― part3(2)(2013年03月14日)
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マッカーサーは敵の大将だ。その大将に私の父は尊敬の念をもって視線をむけた。マッカーサーは、私に近づいた。魔王のような太い大きな手が私の頭におかれた。そして、撫でた。私は、その大きな格好の良い男を見上げた。「ユーアー、グッドボーイ」。私は形容しがたい嬉しさでいっぱいになった。「サーキュー、サアー、ゼネラル」父は感動して、マッカーサーに深々と頭を下げた。マッカ…
- 地方の帝王 ―市長の事情― part3(1)(2013年03月05日)
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「男のコーヒータイム」の執筆依頼を受けた時、はっきりいって私はある種の戸惑いを覚えた。なぜなら、このコーヒータイムという響きがなんともいえない粋さと、私自身のコーヒータイムとの出会いがあまりにも懐かしいものとなっていたからだ。 私とコーヒーとの出会いは古い。日本が敗戦して間もない頃、私は両親に連れられて銀座の松坂屋に行った。今から思えばずいぶん贅沢な話だ…
- Do you know パッキャオ?(2013年02月23日)
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ある東洋人ボクサーのドキュメンタリーをNHKが地上波とBSで放送していた。BSのほうは2時間の拡大版だった。その選手はフィリピン人のマニー・パッキャオ。ライトフライ級(体重48.99kg以下)でデビュー、フライ級(50.8kg以下)で世界チャンピオンになったのを手始めに、次々にクラスを上げて王座に就き、スーパーウェルター級(69.85kg以下)まで6階級の…
- ことわざ徒然~(2013年02月11日)
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人それぞれに深く納得していることわざがあるのではないでしょうか。 私自身にとってはそのひとつに立って(起きて)半畳、寝て一畳というものがあります。 父に教わったと記憶していますが、昭和ひとけたの父も好きだったことわざでした。 改めて意味を調べ直してみると、人が立っている時に必要なスペースは半畳、寝ても せいぜい一畳あれば十分である、そこから欲を戒…
- ウチナージャンキー(2013年02月04日)
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11月上旬の土曜の都内居酒屋。泡盛をしたためながら三線とエイサー太鼓のしらべにのった沖縄民謡を聞いているとこれでいよいよ自分もウチナージャンキーの仲間入りだと思った。この夜の集いは石垣島をはじめとする八重山列島の鳩間島、黒島で民宿や船宿を経営する若手オーナーとそのお客さんたちがあつまる会であった。 2012年の9月末に遅い夏休みを取り、私はスキューバダ…
- 出会いの妙~森天皇(2012年12月25日)
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お宝鑑定団の先生が、手に取った壺をじっと見ながら「いい仕事してますねー」と言うほどの物はある筈もないが、先日、偶然、資料(古本)探しのため、掻きまわしていた押入れの隅から、ちょっと古そうな「煙草入れ」が二つ出てきた。その一つは、和紙を「カンゼヨリ」にした細紐を使って楕円形の小さな筒状に編み上げ、表面を柿渋仕上げにした「キセル入れ」が付けてあり、もう一方には、…
- ちばてつや氏の入魂漫画指導(2012年11月23日)
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『あしたのジョー』、『おれは鉄兵』、『のたり松太郎』など多くの人気漫画の作者、ちばてつや氏(73歳)が秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。折しも全国を巡回開催されてきた「デビュー55周年記念 ちばてつや原画展」が11月17日から池袋の西武百貨店別館で始まった(27日まで)。『あしたのジョー』の原画100点をはじめ、初期作品から最近作まで計250点以上の原画が展…
- 出会いの妙~山手線(2012年11月18日)
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「一期一会」という言葉がある。一生に一度の出会いということになろうか。 哲学的深い意味はさておき、私にはちょっと寂しいようにも聞こえてくる。 「袖触れ合うも他生の縁」というのもある。これは、たとえ行きずりの出会いでも、それを縁ととらえ大切にしたいという前向きの姿勢が見えてくる。 いずれも人と人との「出会い」にまつわる代表的なことわざだとは思うが、つきつ…
- 珈琲!のお話(2012年11月12日)
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1人当たり年間322杯、これって何だか検討つきますか? 唐突で大変失礼しました。実はコーヒーの話なんです。 赤ちゃんまで含めてざっと1人1日1杯はコーヒーを飲んでいる計算です。 南北緯25°の地域(南はブラジル・北はメキシコ、ベトナム)で作られている珈琲。 世界では年間約800万トンが生産。 (1位ブラジル・2位ベトナム・3位コロンビア・4位イ…
- カズとひばり演歌(2012年11月05日)
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現役最年長Jリーガー三浦知良、45歳。11月1日から開催のフットサルワールドカップに日本代表選手として出場した。日本のサッカー界でも、彼ほど長い間、たゆまぬ努力とさまざまなチャレンジを試みた選手はいないだろう。 1982年12月、静岡学園高校を1年足らずで退学、15歳にしてブラジルにサッカー留学。当時は体も小さく、あまり期待されていなかったが、1986…