トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(9)「記者の自殺・深海魚たち」
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こんなにもS県の空が重く垂れ下がっていることはめったにない。まるで、利休鼠のように暗い鉛色の空だ。北陸の空がそのままこの関東平野を覆ってしまったような・・・。
珍しくJRが二時間程ストップした。飛び込み自殺だった。引き裂かれたスーツのポケットには名刺と几帳面な遺書が残されていた。
『毎朝新聞記者・吉野健作』
S県支局の有能な記者だ。遺書には整然とした文字が涙痕を随所に滲ませながら永遠の惜別を告げていた。
「両親をはじめ、僕を今日まで育てあげてくださった全ての方々にお別れを致します。ごめんなさい。誰よりも人生に夢を持ち続けてきた僕でしたが、こんなにも弱かった自分を発見して全身から力が抜けていってしまいました。陽子さん、いろいろありがとう。この世であなたが一番好きでした。僕にはもったいない美しい人でした。あなたとの三年間は僕にとって煌く宝石のような日々でした。でも、僕の勘違いからあなたを孤独に追いやってしまった。記者という名にすっかり甘えてしまって仕事、仕事であなたに寂しい想いをさせてしまった。どれだけあなたは辛かったことでしょうか。どんなに寂しかったことでしょうか。だからこそあなたは寂しさに耐えかねて、僕の大学時代の親友Kと恋に堕ちてしまったのです。それを知った時は、もう立ち上がれませんでした。結婚して幸せな家庭を必ず作ろうと約束を交わしていた僕達だけど、みんな僕が〝二人という独り〟の寂しさを作ってしまった。情けない僕です。みんな僕が悪かったのです・・・」
遺書は続く。
「僕は仕事が好きでした。政治部の記者ということに大きな誇りを持っていました。そしてS県の支局から本社に戻り、やがては政治家を目指していました。ふる里のG県から県会、国会へ出よう― それが僕の高校時代からの夢でした。だからこそS県の政治の毎日がドラマを観ているようでした。政治に賭ける清新な県議達の姿はまさに僕の理想の姿でした。彼らのエネルギーには震える程の感動を覚えました。古いもの、腐ったものにぶつかっていく雄姿。大学で学んだ政治学なぞ陳腐なものに過ぎない。この県議会の改革派の行動にこそ国家の未来があり、政治の理想がある。気がついた時、僕は本来の記者の本務をすっかり忘れて、彼らの味方と化していってしまったのです。しかし、現実は醜悪なものでした。彼らの正義は僕の目から見て全く通じないと思ってしまいました。一部の旧態依存の保守政治家のために、彼らの正義も理想も傷だらけになっていく。それは痛まし過ぎる姿でした。県議会は有権者にとって深い海の底のように全く不透明な世界です。国会の姿は毎日メディアが伝える、市町村議会は有権者の足元で身近です。しかし県議会は、人々の視界の彼方にあります。県会議員は底知れぬ深い海に棲息する、あたかも深海魚のようなものだと僕は思ってしまった。水圧何百キロという重圧に耐えうる能力を持って常に不穏な動きに徹する深海魚。春の陽光も、冬の陽だまりにも浴することができず、骨格だけが異常に発達したその姿を想像するだけでも不快です。彼らは時に群れをなし、時には仲間を喰い殺してしまう・・・僕には耐えられない。深海魚は夢も理想もないんだ・・・陽子さんを失い、政治に失望し、もう僕には生きていく気力も価値も全てがなくなりました。笑って下さい。この弱い一人の人間、まさしく人間失格です。さよならだけが人生ですね。まさしく・・・お許し下さい・・・」
小学生の頃、神童と呼ばれ周囲の人々の期待を一身に背負ってきた一人の男のあっけない最期だった。
毎朝新聞記者、吉野健作の自殺は各紙の地方版の片隅にほんの二、三行で知らされた。
「青いな、やっぱり奴はなぁ・・・」
S県県議会保守党の幹部、千曲は呟いた。
「世の中、そんな甘くなんかありやしねえよ。やれ正義だ、理想だ、話にならねえな。だから、学校秀才なんてのは駄目なんだよな」
千曲は呟きというより彼の周りにいる五、六人の県議達に言い聞かせていた。
「だいたいな、政治は金なんだよ。ゼニを使わないで何が政治なんだよなぁ。ゼニ、それと数な。その数だってゼニがなければ集まってくる訳ねえだろう、なあ」
周りの県議達は意味ありげな薄笑いを浮かべながらうなずいていた。
「さあて、今夜は浦山亭で一杯やろうや。知事や副知事もよんであるからな。なんたってな、俺達は野党たって、圧倒的多数を占めてんだから言うことをきかねえ訳がねえからな。それから、おめえ、もし知事達が首を縦に振らなかったら、おめえ、そうかい、じゃあ、予算は通さなくていいんですね、と脅かしてやりゃ、彼らはすっかり参っちゃうからよ。おもしれえなぁ」
千曲は急に大声を出して、子分格の名倉の肩をポンと叩いた。そしてその手で肩を強く揉んだ。
「全くだいね。千曲先生の言う通りだいなぁ」
名倉は品格のない追従笑いを浮かべながら千曲の手を握った。
「野党で執行部を脅かしながら楽しんでいた方が何か楽しくねえか?」
千曲の同僚議員が言うと
「馬鹿、やっぱり俺達のよぉ・・・言うことをおめえ・・・そのまま聞く子飼いの知事を作った方が、ずっとおもしれんだよ。ボンボンだな、よーさんはな」
千曲は牛乳瓶の底のように分厚い眼鏡ごしに遠くを見やった。
「俺はここまで苦労してやっと県政を動かせる立場になった。次は必ず自前の知事を創ってみせる」
天才的な策謀の能力を自らも信じきっていた男の背中は、まさしく深海魚の背びれのように暗い光彩を放っていた。
一人の若い記者の自殺は、同僚の最上礼子に強い衝撃を与えた。
最上はもう少しで三十路に近づく妙齢の美人記者。その容色は政治家達の眼をそそった。
R大学を卒業後、作家を志望していたが生活のために新聞記者になった。
数年後、毎朝新聞の先輩記者と結婚。しかし、お互い忙し過ぎてすれ違いの日々を送った。
協議離婚をした。子供はいなかった。生涯、キャリアウーマンでいようと心を決めて記者稼業に情熱をかたむけた。
そんな矢先の同僚の突然の自殺。
「吉野さんて、純粋過ぎたんです。何でも突き詰めちゃうんですよ。女だって、この世の中いっぱいいるじゃないですか・・・県会だって、若い先生方は少しもへこたれてなんかいないですよね。むしろパッションをたぎらせてますます輝いていると思うんですよ」
最上礼子が毎日のように取材で追いかけている信濃春彦に語ったのは、吉野の自殺から一週間がたった日のことだった。
最上礼子は畳み込むように言った。
「吉野さんは、すごくストイックでプラトニックだったんです。性愛なんて知らないのかしらと疑ってしまう程だったんです」
春彦は大胆に〝性愛〟という表現をする礼子に思わずドキリとした。と同時にそこはかとない女の色香を嗅いでいた。
一見理性の塊のような才色兼備の女性を愛らしく思った。
〝噴水に乱反射する光あり、性愛をまだ知らない私〟
どこかの雑誌に掲載された女子学生の短歌が春彦の記憶のスクリーンに映し出された。
最上礼子は続けた。
「私・・・。もう本社に戻らなくていいんです。このS県のあまりにも古い県議会の体質を根本から変えていこうと戦っている信濃先生達の生き方にすっかり心を奪われてしまったんです。是非、先生方をペンの力で応援したいんです。それが又、吉野さんにも報いることだと思うんです」
「ありがとう。でもね、最上君。記者は公平でなけりゃあねぇ。ありがたいけど。君は君の使命がある筈だよ。僕等の使命と君達の使命があまりにもぴったりじゃ、かえって変だと思わない?僕はそう思うんだ」
春彦は若干、自分の心を偽っていると気付きながらも言い切った。
「反論しては申し訳ありませんが、記者の心と政治家の心が一致する事はとってもすばらしい事と私は思っているんです。本当に一致した時、理想の政治が実現できるんじゃないですか」
すでに離婚も経験している大人の女性の中に、汚れていないピュアな魂の激しい情念のようなものを感じて、春彦は緊張した。
―― 中途半端なことじゃ笑われちゃうな・・・一本の矢のような精神を持って挑んでいかなきゃな・・・。
春彦は改めて自らを正した。
―― どう生きようと一生は一度だ。信念と使命の中に人生を賭けることだな・・・。
亡くなった吉野の恥らうような寂しい笑顔が春彦の目頭を熱くした。
「俺はやり抜くからな、吉野君!」
(つづく)
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