トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 日本人はなぜ「私」ということばを使わないのか (後編)
外交評論家 加瀬英明 論集
私はオーストラリア生まれの哲学者であるルドルフ・シュタイナー(1861年~1925年)の著作を読んで、「私」について考えさせられた。
シュタイナーはドイツに長く住み、人智学〔アントロボソフィー〕という、新しい分野をつくった。また、バルドーフ学校運動の創始者としても、有名である。日本にもファンが多く、いくつかのシュタイナー学校がある。
シュタイナーはこう書いている。
「幼児の成長過程の中には、周囲の環境に対して、はじめて自分を独立した存在であると感じる時間がある。感受性に富んだ人にとって、このことは重要な体験となる。
詩人ジャン・パウルは自叙伝の中で物語っている。 — 『まだ誰に話したこともなかったが、私は自我意識の誕生の瞬間を決して忘れることができない。その時間と場所ははっきり憶えている。
或る朝、私は玄関の戸口に立ち、左手の、積み重ねられた薪の方を眺めたとき、自分が〈私〉だ、という内的ヴィジョンが、まるで稲妻のように、空から私に落ちかかり、それ以来、その輝きはずっと消えることがなかった。
あの時、私の自我がはじめて、そして永遠に、自分自身を見たのだと思う。(中略)』
幼い子供は自分のことを、『カールは良い子にしているよ』とか、『マリーはこれが欲しいの』とか、言う。子供はまだ自分の独立した本性を自覚しておらず、自我意識がまだ育っていないから、自分のことを他人のことのように言うのである。」
(『神智学』高橋厳訳、イザラ書房)
幼い子供は自分のことを「カールは積み木をしているよ」とか、「マリーはお菓子が欲しいの」とかいうが、ある瞬間から、自分を指して「ぼく」とか、「わたし」と呼ぶようになる。「太郎は」とか、「花子は」とかいっている間は、自分を他人のように扱っているというのだ。
私はいったい、いつから「私」という言葉を使うようになったのか、ここに出てくる、詩人のような記憶は、まったくない。
英語や、ドイツ語をはじめとするヨーロッパ諸語では、「私」という時には「アイ」(I)か、「イッヒ」(Ich)のたった一つしかない。
ところが、日本語では、自分と相手が置かれた地位との関係により、「わたし」「わたくし」「おれ」「ぼく」「小生」「自分」「愚生」といったように、いく通りも使い分けられる。
日本語が、このようになっているのに対して、ヨーロッパ諸語では誰に対しても、相手によって、変わることがない。
こういったことは、習慣の問題にすぎないと思えるかもしれない。しかし、私自身体験していることだが、日本では社会に対して一定の自分や、不変の自分を持つことが難しい。
相手によって、自分の置かれた位置が、いつも揺れ動くのだ。株価がつねに、変動しているようなものだろう。
日本は互いに相手に合わせて、一体になることをはかる文化である。
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