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「ローマ帝国はパンとサーカスで滅亡した。私は真の保守政治をつくっていきたい。」平沼グループ総帥の言は重い。確かに、ローマ帝国の政治家が市民に迎合してパンや娯楽を提供し続けて滅びの道を歩んだことは事実だと思う。
地方分権だといえば、知事会の顔色を伺い、新米の知事にペコペコと頭を下げ、マニフェストまで書き換えようとする政党や政治家に何を託せるというのか。
政治の道に足をふみ入れたばかりの青いリンゴのような知事に会えて、民主党の準エース格の原口氏は「涙が出るほど感動した」のだそうだ。一体、いつの時から見識とか風格ということを忘れてしまったのだろうか。リーダーに必要なものは、一般よりすぐれた見識である筈だ。
例えば、あまり見栄えの良くない寿司屋に入った二流の客が、「ここにはカツ丼がおいてないのか、俺はカツ丼が喰いてえんだ」というと、その寿司屋はお客欲しさに「わかりました。次来るときには活きのよいカツ丼を必ず用意しておきます」
次の客が来て、「寿司もいいが、今度はイタリアンぐらい用意しておいてくれよ」と言うと、「はい、わかりました。次からは我が店のマニフェストに必ずスパゲッティを追加しておきますから」---こんな会話を、今の政党に笑える資格はあるまい。
そもそも、マニフェストなるものが妖怪のごとく闊歩していることもおかしなことだ。やはり「公約」がいい。公の約束だからだ。政治は約束が最も大切なのだ。「公約」という重たい漢字が忘れられてしまうから、漢字が読めない首相や、軽薄な横文字政治が台頭してくるのだ。
小選挙区制も全くおかしな制度だ。大物が出てくる下地もなくなった。政党から無理やり引っ張り出されるような形とか、公募なぞという一見まともそうな制度によって、志や使命を持った政治家が少なくなってしまった。新進党ができたころ、ろくな議論をせずにこんな制度をつくった軽薄さは大罪に値するのではないか。
小泉改革によって、日本はどれだけ良くなったのか。生活はどれだけ向上したのか。全く持ってわからない。竹中さんなる人は、まだまだ改革が徹底してないからだと平然と言うが、このまま構造改革を徹底していったら、日本はガタガタになることは火をみるより明らかだ。改革!交代!という叫びは、どこかに大きな罠がある。真の改革、真の交代とはズレているところに不幸が潜んでいるのだ。総選挙は、最も厳しく国民の見識が問われていることだけは事実だ。
ペコペコ政治は御免だ。