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外交評論家 加瀬英明 論集
ほんとうに腹の底から笑うことができる者は、強い者である。
私たちは、毎日、さまざまな場面で笑っている。しかし、ちょっと考えてみると、笑いといっても、いろいろな笑いがある。私たちは、おかしくなくても笑うことがある。微笑するのは、相手に敬意をいだいていないことを伝えるためであるし、ある場合にはこちらが余裕を持っていることを示すためである。
義理で笑うこともある。「いやあ、ご無沙汰しました。ハッハッハ」とか、「今度、ごいっしょに飲みましょう。ハッハッハ」というのは、意味もない笑いで、社交的な嘶きのようなものであるが、ごまかすために笑っているのだ。また、弱い者が強い者に媚びるような、卑屈な笑いもある。
しかし、ほんとうの笑いは解放感をともなうものである。フランスの哲学者であるベルグソンは、笑いは優越感の表現であるといったが、私はほんとうの笑いはおおらかなもので、人工的なモラルから解放されたくつろぎをもたらすものだと思う。笑いは、人間を自由にしてくれる。善悪すら超越したものなのである。だから笑いは大きな力を持っている。
一昨年の三月に福田・カーター頂上会議が行われた時に、私はワシントンにいた。歓迎式がホワイトハウスの南庭で催された日は、美しく晴れていた。ホワイトハウスと国会議事堂を結ぶペンシルバニア大通りは、日章旗と星条旗の小旗によって飾られていた。ところどころでワシントンの名物の桜が爛漫と咲いていた。礼砲が鳴り、福田首相が儀仗兵を閲兵した後に、椿事が起こった。
日米の両首脳が挨拶を交換した。まずカーター大統領が歓迎の辞を述べたが、そのなかで「桜が半開なのが残念です」といった。続いて福田首相がマイクの前に進むと、「桜が満開です」といった。大統領と首相は、官僚が用意した原稿をそれぞれ読んだのだった。
翌朝、ワシントンの新聞は、「日米首脳のあいだに、小さな意見の対立があった」と報道した。
どうやら、桜論争については、アメリカの官僚が窓の外をよく見ないで原稿を書いたようだった。どうやら福田首相が勝ったようだった。
ユーモラスなことがおもしろいのは、日常性から外れているからである。私たちの生活は四六時中きまったことによって縛られている。フロイトは「文明は抑圧である」という有名な言葉をのこしたが、きまりによって抑えつけられた状態から一瞬でも解放されると、ほっとするものである。
ホワイト・ハウスや、ロンドンの首相官邸の会議、最高戦略を決定する作戦会議、新聞の論説委員会といったように、向こうの著名な人たちの回想録や、書いているものを読むと、真面目な席上で参会者の口から私たちには想像できないようなユーモアや、サタイア(諷刺)がでてくるのだ。もちろん、ユーモアは笑いを共有することによって、人々のあいだの親しさを増すという効能を持っている。あるいは雰囲気をくつろがせるという役割を果たす。サタイアは真実を鋭くつくことがある。ところが日本では真面目なことを話す席上では冗談めいたことはいってはならないことになっている。「巫山戯る」とか、「茶々を入れる」とかいわれて、嫌われる。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 5章 「ユーモア」の発想