社会
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無観客で開催された大相撲3月場所で健闘した朝乃山が大関に昇進した。富山県出身の大関誕生は明治末の太刀山(後に横綱)以来111年ぶりだという。近親者に朝乃山と同じ小・中学校出身者がいて、我がことのように喜ぶのを見て、こちら埼玉県はどうかと調べてみた。
現在、幕内に埼玉出身の3力士がいるから、モンゴル勢を除けばトップクラスだ。小結・北勝富士(所沢市)は大きく負け越したから来場所の三役陥落は避けられないはずだが、前頭筆頭の大栄翔(朝霞市)は8勝7敗と勝ち越し、三役復帰は確実だろう。阿炎(越谷市)は7勝8敗で、前頭4枚目の地位から少し下がるか。
埼玉出身力士が増えた背景には、今や高校相撲界を席捲する埼玉栄高校の存在がある。北勝富士と大栄翔も同校出身だ。県内だけでなく全国から有望選手が集まり、大関にまでなった大阪出身の豪栄道(1月場所後に引退)と兵庫出身の貴景勝のほか、幕内に埼玉栄勢が名を連ねる。
埼玉栄の台頭までは埼玉出身力士は少なかった。私の記憶でも、戦後は若秩父と若葉山くらいだ。
秩父郡高篠村(現・秩父市)出身の若秩父は地元の高校を中退して花籠部屋に入門し、1954年5月場所に初土俵。58年1月場所で十両入りしてからはスピード出世、翌年には19歳11か月で小結に昇進し、史上初の10代三役力士となった。175cm、150kgのアンコ型で、巨腹を使っての吊りと寄りで大関も期待された。そんな時、糖尿病を患い、幕内から転落することもあったが、節制に努め、再入幕をはたした。制限時間一杯になると大量の塩を高々と撒くことでも知られた。
大宮市出身の若葉山は1922年に中国の北京で生まれた。幼少期に生き別れになった両親を探すために相撲界に入ろうとしたが、うまくいかず、日本統治下の朝鮮の京城(現・ソウル)で働いていたら、大横綱・双葉山の一行が巡業でやってきた。弟子入り志願して入門を許され、1942年1月場所で初土俵、戦後の47年6月場所に新入幕。小兵だが、多彩な技を繰り出し、とりわけ足取りでは名人とされた。51年5月場所では2つの金星もあり殊勲賞、翌場所に小結に昇進した。61年1月場所を最後に引退、年寄・錣山(しころやま)として、時津風部屋、立田川部屋に所属した。
1950年代半ば頃、小学生だった私は若葉山にファンレターを送った。大宮の正確な住所は知らなかったが、何とか届いたようで、ていねいな返信をもらった。葉書には達筆な文字がびっしり書き込まれていた。「勉強をがんばりなさい」に続いて「お父さん、お母さんを大切に」という言葉があったのを覚えている。
今回の取材でわかったことだが、若葉山は新入幕まで四股名ではなく本名の「岩平」で通したという。生き別れの親に気付いてもらうためだったが、その願いは叶わなかった。そうした事情を知ると、小学生への返信に両親にふれた部分があったことに納得し、胸が熱くなった。
彼は福島市の病院で亡くなった。そして今、孫の3兄弟が福島出身力士として土俵に上がっている。ともに時津風部屋から独立した荒汐部屋所属で、長男が幕下の若隆元、二男の若元春と三男の若隆景が十両だ。若隆景は3月場所に十両2枚目で10勝をあげたから、再入幕をはたすだろう。お祖父さんのためにも喜びたい。
山田 洋
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