トップページ ≫ 社会 ≫ ノムさんも絶賛、記録に無頓着だった大投手
社会
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プロ野球もシーズンの3分の1を経過した。チームの勝敗だけでなく、選手個人の記録樹立にも関心が高まっている。野球記録が注目されるようになったのは、この分野のパイオニアともいうべき宇佐美徹也(報知新聞や日本野球機構コミッショナー事務局に勤務)の功績が大きい。記録をとおしてグラウンドの人間ドラマを描いてくれたが、一方で彼は記録を作るための本人やチームによる作為に対して厳しい目を向けていた。
それと逆に、偉大な実績をあげながらも記録やタイトルに無頓着であったり不運も重なって、タイトルをのがし、ありがたくない記録を残してしまった選手がいる。その代表例ともいえるのが、1954(昭和29)年から20年間阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)で活躍した左腕の梶本隆夫投手だろう。高校を出た直後の開幕戦に先発起用され、勝利投手になるや、勢いを得てシーズン前半だけで12勝、オールスターのファン投票で1位になった。結局、年間で20勝12敗の成績を残し、普通なら新人王間違いなしだが、この年は南海ホークス(現ソフトバンク)の高卒新人、宅和本司がなんと26勝9敗という成績で新人王になってしまった。20勝をあげながら新人王になれなかったのは梶本だけだというが、宅和のほうは3年目に故障し、4年目以降は1勝もできなかった。
1年目に新人王をのがしたのが象徴的で、彼は2年目以降も18勝、28勝、24勝と大活躍してもあと一歩のところでタイトルとは無縁だった。28勝の1956年は1勝差の2位だった。チーム首脳から「リリーフ登板で勝ちを増やさないか」と提案されても「人の勝利は取りたくない」と断った。
金銭についても無欲だった。岐阜県多治見工業時代に県大会でノーヒットノーラン試合を繰り返したので阪急、中日、巨人が入団交渉に来たが、契約金が最も安い阪急を選んだ。巨人の4分の1の50万円だった。球団代表と親戚だったことと、高校の先輩で当時のエース柴田英治投手がいたからだという。
同じ年に南海入りした野村克也は3年後に初対決するが、速球とカーブの威力に驚き、「こんなボール、どないして打つんや。ホントにオレと同い年なんか」と思ったという。このような球威は当時としては飛び抜けていた186センチという長身と柔らかい筋肉から生まれた。長身の左腕ということでは国鉄スワローズ(現ヤクルト)と巨人で通算400勝の金田正一(184センチ)とよく比較される。野村は著書『プロ野球 最強のエースは誰か?』(彩図社 2014年刊)の中で「わがままを地で行く金田さんに対して、梶本は温厚で誰に対しても笑顔で接した。およそピッチャーらしからぬ仏様のような人である」と毒舌で鳴らすこの人には珍しくベタぼめしている。
梶本投手が活躍していた頃、少年ファンとして野球の情報を追っていた私も、パ・リーグについてはオールスターゲームと日本シリーズでしか接することができなかった。オールスターのテレビで見た梶本は印象的だった。一見して大柄とわかったが、マウンドでは終始、柔和な表情で、他チーム所属の捕手(南海の野村だったか?)のサインに大きくうなずく。ピッチングを楽しんでいるようで、他の投手には見られない独得の風情があった。
20年間の投手生活で通算254勝をあげた。ところが負け数が255あり、通算200勝以上の投手では唯一負け越している。在籍時の阪急がまだ弱く、貧打だったためで、本格派速球投手の証明である奪三振の数はすごい。1956年と翌57年には最多奪三振を記録するが、残念ながら当時はこの部門はタイトル認定されていなかった。1957年4月23日の南海戦では日本記録となる9連続三振を奪い、10月18日にはやはり南海相手に1イニング3者連続3球三振(本人にとって2回目)という離れ業をやってのけた。しかし、1966年には15連敗し、シーズン記録を作ってしまった。この連敗をなんとかしていたら、通算での負け越しも避けられたろう。
力の衰えを自覚し、15連敗のあとはパームボール、フォークを習得し、最後は22センチという大きな手を生かしてナックルを操った。「これで50歳まで投げられるか」と思ったが、1973年オフに上田利治新監督に「コーチになって俺を助けてくれ」と頼み込まれると引退を決めてしまう。コーチとしては多くの投手を育て、その人柄から選手たちに慕われた。
肺ガンを患い、2006年9月23日に永眠。入院前に弟たちと好きなカラオケに行った。いつも歌っていたのが『故郷(ふるさと)』で必ず泣いたという。女手1つで兄弟を育ててくれた母、そして小高い山々に囲まれた美濃焼の産地、多治見を思い浮かべていたのだろう。
山田 洋
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