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児玉源太郎と乃木希典
児玉は、長州は長州でも支藩の徳山藩。だから乃木のような有力な引きもなく明治三年乃木とは五階級下の下士官軍曹として軍歴を始めている。それが後年陸軍大臣、参謀総長になり長州閥のホープと目されるようになったのだからいかに優れていたかわかる。明治十年の西南戦争では熊本城籠城戦に参加。台湾総督時代に後藤新平を起用し民政に多大の成果をあげた。
児玉は外相小村(こむら)と並んで対露開戦論の中心人物。私はこの点及び日露戦争後日本の満州支配の先鞭をつけたことの二点で彼の近代史における役割評価は否定的である。もっとも同じ理由から逆に高く評価する人が多い。
日露戦争終結の翌年参謀総長在任中54歳で急死。彼は長州閥のホープと目されていたが、日露戦争に精力を使い果たし戦後はまるで抜け殻のようであったので、もし長命が与えられていたとしてもさほどの功績はなかっただろう。
児玉が満洲軍総司令部から総司令官大山の代理として第三軍に乗り込み、一時乃木の指揮権を取り上げ二◯三高地を攻略する行(くだり)は全編のハイライトで、ここを読んで児玉ファンになった人も多い。民主党の菅直人氏も息子に源太郎と名付けたほどだ。
だが児玉はその前がいけない。海軍や東京の参謀本部では早くから着弾観測所として二◯三高地の占領を説いていたが、満洲軍総司令部も第三軍も聞き入れなかった。遅まきながら同高地を攻撃目標に転換した時は既にロシア軍が相当防備を強化した後であったのであれほどの犠牲を強いられた。
乃木希典のこと。
乃木は松陰の叔父玉木文之進の弟子で松陰の相弟子に当たる。その上長州御楯隊総督の御堀耕助は従兄弟に当たる。つまり乃木は長州藩の嫡流と言える。御堀耕助は従兄弟の乃木のことを気にかけ、瀕死の床で薩摩の重鎮にして陸軍の大幹部であった黒田清隆に乃木のことを託す。黒田はこの約束を忘れず明治四年いきなり少佐として任官させる。乃木は晩年、生涯で一番嬉しかったことは少佐に任官された時だと懐古している。
日露戦争が勃発した時、司令官はそれぞれ第一軍薩摩の黒木為楨(ためもと)、第二軍小
倉の奥保鞏(やすかた)、第四軍薩摩の野津道貫(みちつら)。というわけで長州藩がいなかったので長州閥の頂点に立つ山縣が押し込んだものである。もっとも単に藩閥的思惑からだけでなく、乃木はその十年前日清戦争の時旅順を攻略した実績があることも考慮された。不運だったのは参謀長に薩摩の伊地知幸介を配されたことだ。伊地知は軍人としては思考に柔軟性が欠け、海軍に対する縄張り意識が強く海軍の助言(「攻撃目標を要塞正面ではなく二○三高地に転換すべし」、要塞砲の使用など)に耳を傾けなかった。参謀長の役割は非常に重要で、作戦はすべて参謀長が起案し司令官は盲判を押すだけであることが多かった。満州軍総司令官の大山巌と総参謀長児玉源太郎との関係また然り。
戦前陸軍の一部でひそかに囁かれていた乃木無能論を戦後初めて声高に語ったのが司馬遼太郎。だが司馬の乃木論はいささか公平を失している。第一回旅順総攻撃の直前満洲軍総参謀長の児玉も現地を視察し作戦計画に同意している。だからあの作戦には児玉にも大いに責任がある。
旅順要塞であれだけの出血を強いられたのは事前に同要塞に関する情報を十分もたず、その上藩閥人事で乃木を第三軍司令官に、参謀長に伊地知幸介(薩摩)を任じた陸軍全体の責任だろう。
山縣ら陸軍首脳は、一旦乃木更迭を決めるが乃木を愛していた明治天皇の反対によってそれができなかった。乃木はその経緯を知った時殉死を決意したのではないか。旅順戦で大勢の将兵を死なせたことは彼の終生の負い目となった。
もっとも明治天皇の反対がなかったとしても戦争のさ中、司令官を代えるのは作戦がうまく行っていないと公表するのと同じであるから、戦費を外債に頼っていた日本として賢明な選択肢であったかどうか疑念はある。
私は2003年の暮、旅順を訪ねて二◯三高地の山頂に立った。日露戦争当時は不毛のはげ山だったが、びっしり松の低木に覆われていた。旅順港を見下ろすような位置にあるという先入観があったので、意外に港は遠いな(3キロ前後)という印象を受けた。山頂に乃木が建てた「爾霊山」の碑が残されていたのも意外だった。新中国建国後「日本軍国主義の侵略」の痕跡は片端から抹殺され、残されたのはただ歴史の教材としてだけであったから。
尚中国語で爾霊山と二○三は音が同じ。漢詩文の素養が深かった乃木は中国語の音を知っていた。
水師営の会見所もあったが、今あるのは文革中破壊されたものを日本人観光客目当てに復元したものである。
彼の殉死のこと。
乃木は遺書の冒頭で「西南戦争の時、軍旗を失って以来死処(ししょ)を探していた」と書いている。本心だろうか。軍旗の喪失は三十五年前の話だ。明治十年といえば国軍ができてからまだ日が浅い。軍旗をそれほど神聖視する思想が当時あったのだろうか。私は旅順戦で多くの将兵を死なせたことの負い目、解任されるべきところを天皇の温情によって名誉を救われたことが大きかったと思う。ではなぜそれを書かなかったのか。それを書けば天皇に矛先が向いかねない。乃木を解任していればあれほどの損害を出さなくて済んだと。一般の国民はそうした経緯を知らない。だからそれを書くわけにはいかなかった。乃木は遺書が死後公表されることを前提に書いたはずだ。
尚乃木の先祖は松江市(島根県)乃木町の出身。毛利は分家の吉川(きっかわ)、小早川を含め戦国末期中国十一ヶ国を支配していた。
山本権兵衛と東郷平八郎
山本は日露戦争時の海軍大臣。彼には若いころ(16歳頃)おもしろいエピソードがある。彼は戊辰戦争に薩摩軍の兵士として従軍した。戦争が終わりすることもなくなったので、体力に自信のあった山本は相撲取りになろうと思い当時の名横綱陣幕久五郎に弟子入りの相談をする。しばらく彼と話をした陣幕は「お前は相撲取りになるには頭が鋭すぎる。別の道を探しなさい」と諭した。山本はこの後創設間もない海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に進むことになる。彼は海軍大臣西郷従道の下で大佐にして大臣官房主事(今の官房長)であった時から大臣の仕事まで任されていたので、明治海軍は山本が作ったようなものだ。東郷を窓際族から聯合艦隊司令長官に抜擢したのも山本。もし山本があの時相撲取りになっていたらもう一人大横綱が誕生したかもしれないが、日清、日露の戦勝はなかったかもしれない。それまでの陸軍主、海軍従の関係を陸海軍対等にしたのもの山本。陸軍における山縣のような存在。後の海軍大臣財部彪(たからべたけし)は彼の女婿。
江藤淳(本名江頭淳夫)と雅子妃殿下の共通の曽祖父に当る江頭安太郎海軍中将は山本の腹心の部下であった。江藤が曽祖父や山本のことを書いたのが彼の唯一の(多分)小説「海はよみがえる」。
尚「権兵衛」の読み方だが、山本自身は「ごんのひょうえ」と呼ばれるのを好んだらしいが、彼自らの「Gonbei」の署名が残されているので「ごんべい」でいい。
東郷平八郎は戦前恐らく世界的に最も有名な日本人ではなかったか。その名声はトラファルガー海戦のネルソンに匹敵する。
ただ昭和に入りロンドン軍縮条約をめぐり海軍が条約派(軍縮派、英米との協調を重視)と艦隊派(軍拡派、英米との対立も辞せずとする)に分れた時、艦隊派のシンボルとして条約派の粛清に力を貸す。彼は昭和9年87歳で没するが敗戦時まで生きていたとすれば戦犯に指名された可能性がある。ネルソン同様戦艦三笠艦橋で戦死したほうが日本のためによかった。
丁字戦法或いは東郷ターンは誰の発案か議論がある。東郷説、秋山真之説に加えて最近では山屋他人説もある。だがこの議論は余り意味がない。千変万化する戦場にあって臨機にどの戦法を取るかはひとえに司令官の責任である。
それに丁字戦法が成り立つには艦隊速度が敵より相当速いという前提が不可欠だ。そうでなければ敵より長い距離を航行する分だけ、敵を取り逃がしウラジオストックへの遁走を許す可能性が高まる。そして彼我の速度比較は実際に遭遇しないことには分からない。
司馬はこの小説の中で「東郷がバルチック艦隊は(太平洋岸経由ではなく)まっすぐ朝鮮海峡を来ると信じて疑わなかったことが彼を世界海戦史上に残る名将にした」と書いている。だが最近発見された資料でこの見方は覆された。東郷は条件付き移動命令を全艦隊に出していた。「後一日バルチック艦隊が発見できなければ、津軽海峡の日本側出口に移動せよ」というものである。朝鮮海峡を来ると信じて揺るがなかったのは前聯合艦隊参謀長島村速雄であった。
余談だが東郷は貸家を多くもっていたが、家主としての義務である修繕は碌にしないで、しかも家賃の取り立ては厳しかったので店子の評判はすこぶる悪かった。乃木が陸軍大将、伯爵としての相当の報酬をほとんど戦争遺族や貧しい人のために使ったのと比較したくなる。
加藤友三郎と島村速雄
加藤は日本海海戦時の聯合艦隊参謀長で秋山真之の上官に当る。島村は加藤の前任者。私はこの小説に登場する軍人の中では加藤と島村に強く惹かれる。但し島村の役割はこの小説では十分書かれていない。
日本海海戦はあくまで従たる戦争であり、主戦場は満洲であった。加藤はそのことがよくわかっていたのであの大勝利に少しもはしゃぐことがなかった。司馬の表現を借りれば「日本の大勝利が決まった時も加藤はまるで銀行員が一日の仕事を終えただけであるかのように平静であった」。
また親戚知人がお祝いを言いに自宅に駆けつけても「なんのことですか」ととりつく島もなかったという。普通は自慢話の一節もぶつところだ。
加藤は後年海軍大臣の時全権代表として軍令部の反対を押し切ってワシントン軍縮条約に調印する。
以下に加藤が当時筆記させたメモを引用する。「国防は軍人の専有物ではない。戦争もまた軍人だけでできるわけではない。国家総動員してこれに当たらなければ目的を達することはできない。わかり易く言えば、金がなければ戦争はできないということである。日本と戦争の起こるprobability(可能性)のあるのは米国だけである。仮に軍備は米国に拮抗できるだけの力があると仮定したとしても、日露戦争のときのような少額の金では戦争はできない。それではその金はどこからこれを得ることができるのかと言うと、米国以外に日本の外債に応じることのできる国は見当たらない。そうであればその米国が敵であるとすれば、この途は塞がれるのであるから・・・結論として日米戦争は不可能ということになる(原文は文語体、ここで「金」と「外債」という言葉を「石油」に置き換えてもいい)以下省略」。
この加藤の認識を日本の指導者の多くが共有していればその後の日本の歩みは変っていたでしょう。この加藤友三郎に長命が与えられず、返って、日本海海戦の英雄東郷平八郎に長命が与えられたのは日本近代史にとって不幸であった。
島村速雄のこと。東郷が津軽海峡日本海出口に移動するよう全鑑に命令を発した後、島村がバルチック艦隊は間違いなく朝鮮海峡から来ると強く進言する。しかも非常に謙譲な人柄であった島村は戦後この経緯を一切語っていない。島村は土佐出身。土佐の坂本龍馬や島村速雄が作った海軍を同じ土佐の永野修身が滅ぼしたという人もいる。永野は日米開戦時の海軍軍令部総長。永野は「土佐が生んだ坂本龍馬以来の天才」を自称していた。
高橋是清
日露戦争は外債に頼るところが大きかった。ロンドンで起債に成功したのが当時日本銀行副総裁の高橋是清。これは満州での戦闘に劣らず困難な仕事であった。
ところで高橋はなぜ二二六事件で標的とされたのだろうか?その疑問に応える彼の発言がある。
「一体軍部はアメリカとロシアの両面作戦をするつもりなのか。軍部は常識に欠けている。その常識を欠いた幹部が政治にまで嘴を入れるのは言語道断、国家の災いと言うべきである」
小村寿太郎
一般に小村の評価は高いが私には異論がある。
ポーツマス講和会議の際、場外の宣伝戦ではロシア全権ウィッテに完全に負けていた。小村が輿論の重要性を理解できず、報道機関のあしらいが下手であったことが日本の不利に働いた。
それでも講和条約を締結したことを彼の功績とする人に対して、私はこう言いたい。「彼は予め訓令を受けた譲歩できるぎりぎりの線まで譲歩した。あそこまで譲歩するのであれば全権が誰であっても妥結できただろう」と。
交渉の土壇場で樺太の南半分をもらうことになったが、これは外務省が小村とはまったく別のルートでロシア皇帝の意図を知ったためで小村の功績ではない。
もっとも遺憾であるのは南満州鉄道(いわゆる満鉄)の日米共同経営案をぶち壊したことだ。
ポーツマス講和会議が開かれていた頃、日本ではアメリカの鉄道王ハリマンと日本政府は満鉄の共同経営に関し仮契約の合意に達した。日本は莫大な戦費を費やししかも賠償金はとれなかったのだから満洲開発の資金などない。日米共同経営案はアメリカの資金を導入して満州を開発しようとする合理的なものであった。それをアメリカから帰国した小村がぶち壊す。
彼はその理由の一つとして「満鉄はロシアが清国の同意を得て作ったものだ。清国の意向を無視して日本単独で処分できない(日米共同経営など)」というものであった。一見もっともらしいが、小村は清国の意向などお構いなしに、武力で恫喝してでも満鉄の日本への移譲を認めさせる腹だったのでこの言い草は欺瞞的だ。現にその後の清国との交渉は、交渉とは名ばかりで日本が一方的に宣言し清国が不承不承認めるというものであった。
決定的であったのは小村が「ルーズベルト大統領もこの日米共同経営案に反対である」と言ったことだ。当時は国際電話もないし東京からワシントンのルーズベルトの意思を確認する術はないので小村の言うことを信じるしかない。私は、小村は、ルーズベルトがそう発言した日時も、共同経営案に反対する理由も述べていないので、これは小村のフィクションだと考えている。私が吉村昭の「ポーツマスの旗」をまったく買っていないのはこうした私の疑問に応えるところがないからである。
日露戦争当時日本の全権代表が本国と交わす暗号電報がロシア側に解読されていたことも日本側の不利に働いた。日清戦争の下関講和会議では清国の暗号電報を解読していた日本が講和交渉でも圧勝したのとは対照的であった。
日本の敗戦と同時に満洲にあった小村寿太郎と児玉源太郎の銅像が破壊されたのも無理もない。彼らの目から見ればこの二人は日本軍国主義の中国侵略の先がけをなしたもの達である。
鈴木貫太郎
日本海海戦当時第四駆逐隊司令として従軍。水雷攻撃で大きな戦果をあげた。主役ではないがかなり重要な傍役を果たしている。後天皇の侍従長を務めていた時二二六事件に遭い瀕死の重傷を負う。というより彼の年譜では終戦時の首相としての役割が重要だ。
ポツダム宣言受諾を論議する最後の御前会議で鈴木を除き廟議が三対三に割れた時、鈴木は自らの意見を開陳することなく天皇に決断を委ね、天皇が同宣言受諾と決した。
聞くところによると、ある英語学習本(どの本か今のところ確認できない)で「鈴木首相がポツダム宣言を『黙殺する』といったのを『ignore(無視)或いはreject(拒絶)』と誤訳されたことが原爆投下につながった。従ってこれは世紀の誤訳」だったと書いてあるそうである。これを書いた人は「黙殺」発言に至る経緯と文脈がわかっていない。
昭和二十年七月二十六日、日本への降伏勧告であるポツダム宣言が発出されても、日本政府はすぐには公式に反応しなかった。これに対して軍部が「日本政府としてポツダム宣言に対し徹底的に反駁を加え、士気の阻喪を防ぐべきだ」と圧力を加えた。 その結果二十八日付けの朝日新聞は「政府は黙殺」の見出しで「帝国政府(注1)としては米、英、重慶(注2)三国共同声明は何ら重大な価値あるものに非ず(あらず)としてこれを黙殺するとともに断乎戦争完遂に邁進するとの決意を固めている」と報じた。この段階では政府の公式声明はまだない。
その二日後、首相鈴木貫太郎は内閣記者団の質問に答えるかたちで、「私は、三国共同声明(ポツダム宣言のこと)はカイロ宣言(注3)の焼き直しと思う。政府としては何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するのみである」。多分鈴木の頭には二日前の新聞記事がありそれによく似た表現になったのだろう。鈴木は後であれは「『ノーコメント』くらいのつもりだったと弁解しているがこの文脈でそう解釈するのは無理がある。当時の外務大臣東郷茂徳の戦後の証言;
(日本政府としてはしばらくポツダム宣言に対する意思表示はしないと決定していたにもかかわらず)翌日(七月二八日)の新聞に日本政府は黙殺するという記事がでた。それで自分は閣議決定、戦争指導会議の話ではしばらく意思表示をしないというのであって、黙殺するとは非常に違うとやかましく抗議した。以下略 以上東郷の証言。
ここから、東郷の認識でも「黙殺」とは「ノーコメント」とは違って拒否のニュアンスを強く含んでいると感じていたことがわかる。(なお東郷は海軍大臣米内光政とともに八月十五日の降伏に向けて大きな役割を果たした)。 こうした経緯と文脈の中で「黙殺」を「ignore(無視)」或いは「reject(拒絶)」と訳すことが果たして誤訳と言えるだろうか。
以下いずれも筆者による注の説明。
注1:戦前日本の正式名称は「大日本帝国」。よくぞ「大」なんてつけたものだと言ってはいけない。今でも朝鮮海峡の対岸に「大」の付く国がある。
注2:蒋介石政府のこと。当時国民政府は南京陥落後武漢を経て重慶に遷都。
注3:ポツダム宣言に先立ち日本の降伏条件を定めた米英中三国共同宣言。
(ジャーナリスト 青木亮)