子を教える師匠は、聖業についていると考えられた。先の大戦に敗れるまでは、教師は聖職者とみなされたが、戦後は教育の民主化を掲げて、アメリカを生半可な手本として、俗化が進められた。そうした風潮のなかで、教育だけではなく、社会から聖なるものがいっさい否定されてしまった。

　寺子屋では1人の師匠が、寺子が下山するまで、すべての学科を4，5年にわたって教えた。大勢の子供が教場にいたが、師匠が1人ひとりを指導した。教場では子供どうしでも、教えあった。

　子供たちは、たった1人だけの師匠について、学んだ。師匠は全身全霊を打ち込んで教えたし、寺子たちもそのような心構えをもって学んだから、寺子によって尊敬された。師匠は子供たちに、大きな人格的な影響を与えた。

　寺子たちは長じてからも、師への恩を忘れなかった。師匠が没したあとに、教え子たちが費用を出しあって、師の遺徳を称えるために建立した多くの石碑が、全国に残っている。

　師匠の名が表に、裏面に事績が刻まれている。これらの石碑は、「筆子塚」と呼ばれる。筆子は手習いの弟子や、読み書きを習う子のことをいった。地方の神社仏閣によっては、構内に数十の筆子塚が建っており、江戸時代の教育が素晴らしいものだったことをしのばせる。

　寺子屋の師匠には、授業料としてではなく、金子や、海産物や、農作物などがお礼として贈られた。「束修」とか、「謝儀」とか呼ばれた。束修は古く中国で、師をおとずれる時に、持参する謝礼の金品をいった。

　私は学校教員を対象にして、講演をしたことがある。そのあとで懇親会に出席したが、教員たちがシュタイナーの神智学教育や、国連の児童憲章についてしっていたものの、筆子塚についてしらなかったので、落胆した。

　子は天から、授かったものだった。人々は天を畏れた。ところが、今日の日本人は「子供をつくる」という。子は親の所有物ではけっしてないし、親が自由にできるものではない。子供を「つくる」というのは、傲慢で、不遜なことだ。

教育は家庭と学校と地域が一体となって、行うものだ。子供はおとなや、社会を模倣して育つから、この3つが教育機関とならなければならない。社会全体のありかたが、子供たちに大きな影響をあたえる。江戸時代には、家庭も、学校も、地域も、健全だった。

　当時の世界では、どこの国もそうだったが、日本でも父親が家長として、家庭の柱となっていた。父親は絶対的な権威だった。家長は息子の人づくりに当たって、責任を担った。今日の日本では家長も、死語である。権威とともに、責任感も失われてしまった。

　福沢諭吉（1835～1901）は、幕末から明治初期にかけた代表的な思想家だった。九州の中津藩の大阪屋敷で、下級武士の子として生まれたが、数え年で１歳数カ月の時に父が病死した。

　母親の於順は、あの時代の典型的な母親だった。『福翁自伝』を読むと、子供たちに父親がどのような生涯を送ったのか、どのような信念を持って生きたのか、毎日のように繰り返し話して聞かせている。

　それを福沢は、「一母五子、他人を交えず、世間の付き合いは少なく、明けても暮れてもただ母親の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものです」と、述べている。

　今日の日本では妻が子供の前で、夫を立てることがない。夫のほうは夜遅く帰宅し、朝早く出勤する。子供の教育を妻や、塾や、学校に丸投げしている。そんな子が長じて振り返れば、「父は生きていても死んでるようなものでした」と、回想するにちがいない。

　江戸時代には、子の親に対する孝が強調された。しかし、孝は子から親への一方通行ではなかった。親は子を慈しまなければならなかった。

(徳の国富論　３章　寺小屋と七千種の教科書）